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父の都合 息子の事情

※ご注意※

この作品は、第3回キリリク断念・ストーリー・ランキングにお応えして書いた作品、「母の都合 娘の事情」とセット作品となっております。
読む順番としては、「母の都合 娘の事情」が先となっておりますので、そちらをお読みになってから、この作品をお読み下さい。

↓↓↓
「母の都合 娘の事情」を読む(別窓で開きます)

 

 1枚の写真がある。


 『いやだわ、雪哉(ゆきや)君。私なんかより、つぐみを撮ってあげてよ。あの子の方がいいモデルさんになるわよ?』

 困ったように微笑むその人を、どうやって言いくるめたかは、覚えていない。

 彼女を撮った。つぐみも撮った。父を、母を、弟を撮った。風景も撮ったし、庭に咲いていた花も撮った。
 そうして写真屋から戻ってきたプリントの中から、こっそり1枚だけを焼き増しした。それが―――この、写真だ。


 彼女の写真など、家の中に、いくらでも転がっていた。
 アルバムの中、整理されていない写真の束の中―――家族写真の間に紛れるようにして、何枚も何枚も。
 けれど俺は、「自分だけの写真」が欲しかった。
 自分の好きな時に、誰にも知られることなく、「その写真」を眺め、心の支えにしたかった。


 まだ中学生だった俺が撮った、あの人の写真。
 それは、ずっと―――何年間も、辞書の一番最後のページにひっそりと隠された、俺の唯一の秘密だった。


***


 「それで、今日はどうする?」
 「本屋だけ寄って、大人しく帰るよ」
 風邪気味だった。
 頭が、少しだるい。雪哉は、ルーズリーフと参考書を黒い帆布製のかばんに詰め込むと、ため息をつきながら席を立った。
 雪哉の後に続くように、隣に座っていた人物も立ち上がる。こちらは元気なようで、立ち上がり方もいつもながら颯爽としている。
 「じゃ、あたしもサークル、さぼろっかな」
 マフラーを巻きながら呟く(れい)に、雪哉はちょっと眉をひそめた。
 「玲が俺に付き合うことないよ」
 「けどさぁ。卒論追い込みで、先輩方も顔出さないし―――後輩どもは元々さぼってばっかだし。雪哉出ないんじゃ、行ってもあんまり面白くない」
 文芸サークル、とは言うものの、熱心なメンバーは極少数、後は「読書好きな大人しそうな女の子」狙いの男が数名と、彼らの狙いからは外れているであろう女性が数名、といったところだ。そして、雪哉と玲は、その極少数の「熱心なメンバー」である。確かに、玲が「面白くない」と言うのも、当然のことかもしれない。
 「本屋、何買うの?」
 「海原真理の新刊」
 「あ、もう出たんだっけ。買ったら貸して」
 「…たまには買えよ」
 「お礼に、辻村 喬の新刊貸したげるよ」
 屈託なく笑う玲に、雪哉も苦笑を返す。2人は、いつもより若干ゆっくりめの足取りで、講義室を後にした。


 キャンパスの外は、12月―――大学近くにある商店街も、数日後に迫っているクリスマスを意識して、赤や緑で飾り立てられている。
 「今朝、経済の子になんか言われてただろ」
 赤や緑を眺めながら雪哉がボソリと訊ねると、玲は、口を半分マフラーに埋めるようにして、上目づかいに雪哉を見上げた。
 「なんだ、見てたんだ」
 「偶然。…もしかして、俺のこと?」
 「他に何があんの」
 あっさり、言われる。…まあ、仕方ない。今朝、裏庭で、険しい顔で玲に詰め寄っていたのは、先週雪哉に交際を迫ってきた同期生だった。多分玲と彼女は初対面だろうが、あのシチュエーションじゃ、玲にだって彼女の正体はすぐ察せられたに違いない。
 「どういう関係? って訊かれて、ドストエフスキーと芥川龍之介について語り合う関係、って答えといた」
 「ハハ…、玲らしい答えだなぁ」
 「雪哉の好みのタイプだったよね」
 淡々とした玲の声に、雪哉の笑みが強張る。
 「…まあ、あたしが口出すようなことでも、ないけど」
 「……」
 「好みだから付き合いたくない、って―――果てしなく不毛」
 ―――…不毛。
 的確すぎる単語だ。雪哉は、自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。


 雪哉は、高校時代、1度だけ女の子と付き合ったことがある。
 雪哉好みの、ホワンとしたムードを持った、可愛い子だった。好きだと言われ、雪哉も好きだと思ったから、付き合った。そこに嘘はなかったと、今でも思う。いや……思おうとしている。
 けれど2人は、数ヶ月付き合って、別れた。
 ちょうど、雪哉の母が他界した後だったので、周囲はそれが原因だと思ったらしい。雪哉自身も、彼女には「家庭環境が変わって、恋愛どころじゃなくなった」と言った。けれど、本当は、別れた理由は全く別のところにあった。

 母の葬儀で、父や弟以上に涙を流す“あの人”を見て―――気づいてしまったのだ。雪哉が、彼女からの告白に頷いた、その本当の理由に。
 彼女は、“あの人”に、とてもよく似ていた。外見だけは。
 雪哉にとって彼女は、“あの人”の―――長い間、憧れ、密かに想い続けてきた人の、身代わりだったのだ。

 以来、雪哉は、“あの人”の面影のある女の子を見ると、反射的に身構え、距離を置こうとしてしまう。
 そして皮肉なことに、優しげな容姿を持つ雪哉は何故か、“あの人”と同じタイプの女性に好感を持たれやすい。近寄ってくる女性の大半が、“あの人”と同じ、ふわふわと綿菓子のようなやわらかさを持つ、可愛いタイプばかりなのだ。


 「あの件、その後、どう?」
 玲が、少し心配そうに眉をひそめる。「あの件」が何を指しているかは、当然、雪哉にもわかっていた。
 「…いい加減、納得しないと、って、頭ではわかってるんだけど…」
 「…そっか」
 それ以上、玲も突っ込んだことは訊いてこなかった。
 ―――どう思ってるのかな、玲は。
 涼しい顔で、また前を向いてしまった玲の横顔を、チラリと盗み見る。
 雪哉と玲の関係は、多分、一言で言うなら「友達」だろう。大学に入ってすぐ、気が合って、同じ文芸サークルに入り、常に行動を共にしている仲。それぞれの、結構踏み込んだプライベートな話も知り合っている仲だ。
 そして、ちょっとだけ……お互い、男女として意識し合っている部分があるのを、自覚している仲でもある。
 玲が、ただの友情だけで自分の傍にいる訳じゃないことは、これまでの付き合いの中で、なんとなく感じている。そして雪哉の方も―――やはり玲は、男友達とは違う、異性独特の甘さのある感情を伴った相手だ。きっかけがないので、男友達と変わらない関係が続いているが、何か1つあれば、すぐに恋愛関係に傾くんじゃないか、という予感が、ここ半年ほどずっとある。

 玲は、雪哉の想い人を知っている。
 そして、その想い人をめぐって、今、雪哉の身に起きている重大事件も、知っている。
 ―――知ってるけど…助言とか、自分の考えとか、全然言わないんだよな。この件に関してだけは。
 何も言う必要がないからなのか、それとも、言いたいけれど我慢してるのか―――玲の真意を確かめたい気もしたが、言われなきゃわからないのか、と呆れられそうで、雪哉は結局、この日も訊くことができなかった。


***


 玄関のドアが開き、また閉まる音がした。
 雪哉は本を閉じ、居間から廊下に顔を覗かせた。そして、靴を脱いでいる父の姿を見つけ、
 「おかえり」
 と一言、声をかけた。
 残業で遅くなった父は、少しやつれて見えた。それでも、雪哉の顔を見るなり、いつもの笑顔を雪哉に向ける。
 「ただいま。いやー、冷え込んでるな、今夜は」
 「俺たち、先食べといたから」
 「ああ」
 残業のある日は先に食べてるよう言われているので、いつものことだ。着替えをしに向かう父を背中に見ながら、雪哉はキッチンに向かった。

 母の病気がわかり、入退院を繰り返すようになった頃は、もう家の中がメチャクチャだった。特に父と弟は、専業主婦の母になんでも任せきりだったから、入院した翌日にはもう、あれはどこへ行った、これはどうしたらいいんだ、と大騒ぎだった。
 経過があまり思わしくなく、どうやら最悪の事態になりそうだ、と全員が密かに思い始めた頃から、父は変わった。病床の母に簡単に作れる料理を率先して教えてもらい、休日を洗濯や掃除に費やし―――病床の母以上に、どんどん痩せていった。
 そして現在―――母はこの世を去り、炊事の多くは、雪哉が担っている。「お前たちは、しっかり勉強しなさい」と言って、フル回転で家のことも仕事も全部自分でやろうとしている父を、とてもじゃないが見ていられなかったのだ。

 「竜哉(たつや)は?」
 父が、弟の名を口にしつつ、2階に目を向ける。炊飯ジャーを閉じつつ、雪哉も天井に目を向けた。
 「電話してるんじゃないかな」
 「ああ、例の女の子か」
 電話の相手を、最近付き合い始めた同級生と察して、父が苦笑する。雪哉も苦笑する、が―――その意味は、父とは微妙に異なっている。勿論、竜哉とは約束をしてあるのだから、この苦笑の意味を父に言う気など、全くないが。
 「あいつも、今年のクリスマスは、家族と一緒とはいきそうにないなぁ…」
 席に着きながら、どこか感慨深げに、けれど少し寂しそうに父がため息をつく。それに続く言葉を予感して、雪哉は、少し身構えた。
 「お前はどうするんだ? クリスマスは」
 「……」
 予感通りのセリフ。
 母がいた頃は、家族4人で過ごした。パーティーと言うほどのことはしなかったが、いつもより少し豪華な食事に、クリスマスケーキ―――そして、都合が合えば、その面々にもう2人、加わることもあった。
 母が亡くなった一昨年と去年は、2年連続、何もしなかった。とてもそんな気になれなかったし、母のようなご馳走は男どもには作れなかったのだ。でも、多分……今年は違うだろう、と、雪哉は覚悟していた。
 「…父さんたちこそ、どうするの」
 あえて、“たち”と、複数形を使う。
 いただきます、と律儀に手を合わせた父は、箸を手に取りながら、少し首を傾げた。
 「うーん…、もし都合が合えば、本当は5人全員でホームパーティーもいいな、と思ってたんだけどね。でも、竜哉がアレじゃねぇ…。竜哉抜きで、っていうのもどうかと思うし」
 「…せっかくだから、2人でデートでもすれば?」
 つい、ぞんざいな口の利き方になる。これじゃまずい、とは思うのだが…どうしようもない。
 「俺も今年は、ちょっと忙しいし。つぐみも中学生になったから、友達と色々あるかもしれないよ」
 「雪哉…」
 「ホームパーティーなら、来年以降、いくらでもできるんだろ?」
 薄く笑みを作り、父の複雑そうな表情に気づかないフリをして、雪哉はテーブルに置いておいた本を取り上げた。
 「風呂、沸かしてくるよ。明日、ゴルフだろ? そろそろ天気予報やるから、見といたら?」
 「ん? あ、ああ」
 拍子抜けしたような父の声に、踵を返す。
 廊下に出る雪哉の背後で、父がつけたテレビが、天気予報前のスポーツニュースを伝えていた。は……、と息をついた雪哉は、とりあえず、嫌な話題を打ち切れたことに、ホッと安堵した。


 風呂の“自動沸き上げ”ボタンを押し、そのまま居間に戻らず、2階の自室に戻る。疲れたようにベッドに身を投げ出した雪哉は、暫し、黙って天井を見上げていた。
 「……」
 視線を、ベッド脇のカラーボックスの上に積まれた本の山に、移す。
 その中から、使い古した辞書を抜き出した雪哉は、その一番最後のページをそっと開いた。

 ―――…千春、さん。

 辞書に挟んでおいた秘密の写真。
 写真の中の、困ったような愛らしい笑顔は、あれから何年も経った今現在でも、当時とあまり変わっていない。
 “千春さん”―――彼女と彼女の夫は、雪哉の父とは会社の同僚だった。そして、家族ぐるみの付き合いをする中で、彼女と亡くなった母は、父と彼女の夫以上に仲の良い、親友同士となった。
 彼女の夫が事故死し、彼女と、彼女の娘・つぐみが残された。
 母子家庭となった彼女ら2人と、雪哉の家族は、それまでと変わりなく付き合った。休日にはお互いの家を行き来し、子供同士で大いに遊んだ。母と彼女は姉妹のように仲が良く、夫も子供も抜きでショッピングに出かけたりする仲だった。そして職場では、父は彼女のよき理解者であり、頼れる同僚だった。
 そして、2年前―――母がガンで他界し、今度は自分たち家族が残された。
 彼女は、父よりも、竜哉よりも、雪哉よりも、母を悼んで泣いた。大切な人を失った悲しみを知る同士、これまでと同じように、雪哉の家族と懇意にしてくれた。母を失い、失意のどん底にいた父にとって、彼女は多分、大きな心の支えだっただろう。

 だから、これは、必然。
 それなのに―――自分は、何ひとつ、気づくことができなかった。

 『再婚、しようと思うんだ。…千春さんと』

 父には、幸せになって欲しい。彼女にだって、そうだ。彼女の娘であるつぐみのことも、生まれた時から知っているから、実の妹みたいに可愛いと思っている。だから、この再婚は、本来なら大歓迎できる筈なのだ。

 でも―――でも、どうすればいい?
 この、どうしようもない心の空洞と、認めるのが耐え難いほど苦しい、このドロドロした感情は……どうすればいい?

 ずっと、ずっと、好きだった人だ。
 自分の想いが叶う筈もないことは、最初から知っていた。彼女から見れば、自分は「親友の子供」―――15、16離れたカップルが世の中にどれだけいようとも、年齢差じゃなく、雪哉の「立場」が、彼女にとっての恋愛対象じゃない。だから、これは、雪哉の永遠の片想い―――それは、この想いに気づいた時から、嫌というほど知っていた。
 雪哉君、と呼ぶあの声が好きだった。綿菓子のようなふわふわした笑顔が好きだった。その外見とは反対な、芯の強い女性であることにも憧れた。最愛の人を失い、つぐみを抱えて1人必死に生きている彼女を、いつか大人になって、自分が守ってあげられたら―――なんて、身の程知らずな夢を見たことさえある。馬鹿げている、いや、両親のことを考えれば、これは絶対に知られてはいけないことだ、と思いつつも―――まだ知らない恋や愛のことを夢見る時、その対象はいつだって、彼女だった。もう何年も……中学生になったばかりの頃から、ずっと、だ。

 その人が、父の妻になる。
 …どう、答えろというのだろう? 一体、どう自分の気持ちに区切りをつければいいのだろう?
 わからない―――このままじゃ駄目だってことは、痛いほどわかっている。最初から片想いなのだし、確かに2人の言う通り、2人が再婚するのは全員の幸せに繋がるのだし……良き息子、良き理解者として、おめでとうと言わなくてはいけない。わかってる。そんなことは、よくわかっている。でも……わからない。


 大きなため息をひとつつき、写真をまた辞書の最後のページに戻す。それとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。
 「兄ちゃん」
 「……っ、」
 危なかった―――写真を眺めているところなど見られたら、絶対に「誰の写真!?」と興味津々で迫られたに違いない。焦りを何とか隠しつつ、雪哉はベッドの上に起き上がった。
 カチャ、と音をたてて、ドアが開く。30センチほど開いたドアの間から、弟の竜哉が顔を覗かせた。
 「父さん、帰った?」
 「ああ、うん。今、下でテレビ見ながら夕飯食べてる」
 「ふーん…。いつもなら食べ終わるまで下いるのに。どうかした?」
 …なかなか、鋭い。雪哉は、どう答えていいかわからず、曖昧な笑みを竜哉に返した。
 「ちょっと、な」
 「―――まだ反対してんのかよ、千春さんとの再婚」
 いい加減にしろよな、という口調で、竜哉が眉を顰める。
 「そりゃ、兄ちゃんの気持ちもわかるよ。でも、千春さんは“母親”になる訳じゃない、って言ってたじゃないか。母さんは死んだけど、母さんとしてちゃんと家族の中に残るんだ、って。その辺、割り切ってやれよな。オレよか大人なんだから」
 ―――そんなことが割り切れないんじゃないよ、竜哉。
 父も弟も、雪哉の気持ちを「わかる」と言いながら、まるっきり方向違いなことを言う。…当たり前だ。まさか15も年上の女性を雪哉が本気で好いているなんて、想像もできないだろうし、説明してもにわかには信じられないだろう。雪哉は、知らず、苦笑めいた笑みを浮かべた。
 「別に、反対なんかしてないよ。それより、竜哉―――イブは、ちゃんと今付き合ってる子を優先してやれよ?」
 卑怯な手とわかりつつも、これ以上の追及を避けるため、あえて竜哉の弱点に言及する。案の定、竜哉は言葉に詰まり、ちょっとバツの悪そうな顔になった。
 「わ、わかってるっての。ちゃんとOKしといたよ。ったく…面倒だよなー、女って。イベント毎に“カレシなんだから”とか何とかさぁ」
 「…多分つぐみも、そういうイベントにはうるさいと思うぞ?」
 「げ、マジ?」
 竜哉の顔が、心なしか、青くなる。
 千春の娘・つぐみは、幼い頃からの竜哉の“本命”だ。つぐみが小3、竜哉が小5の時に一度振られているのだが、内心、まだ諦めきってはいない。中学に上がってからは色々と異性関係が華やかな竜哉だが、雪哉にだけは「いつか本命を落とすためのステップだ」と打ち明けている。
 父と千春の再婚で、つぐみは竜哉の妹ということになってしまう訳だが―――竜哉はそれを、ポジティブに考えている。「見てろよ、兄貴権限行使しまくって、つぐみに近寄る男、ガンガン追い払いまくってやる」と息巻いているのは勿論のこと、女の子たちとの付き合いで培ってきた女性経験を生かして、つぐみの中の“タッちゃん像”を180度逆転させてやる、なんてことも考えていたりする。勿論、そんな目論見、父も千春も、そしてつぐみ本人も全然知らないが。
 「つぐみは、リアリストな割に恋愛沙汰には“夢見る乙女”だからな。イブにバレンタインにホワイトデーに誕生日―――その辺は押さえとかないと、機嫌損ねそうだ」
 「ううう…そうかー。しょうがねーなー。将来つぐみに駄々捏ねられた時の予行演習だと思えばいいんだよな。よし、思いっきり楽しいイブにするぞー」
 「…まあ、がんばれよ」

 ―――これだけ「つぐみ命」なのに、付き合ってる彼女のことも好きなんだよな、竜哉は…。キスしただの手を繋いだだのって、彼女と何かあるたび、照れまくってのろけてるんだから。
 自分も竜哉みたいな性格だったら、この袋小路みたいな状況も、もう少し楽に乗り切れるのかもしれない。
 なんてことをチラリと考え、雪哉は、竜哉には気づかれないよう、小さくため息をついた。


***


 結局クリスマスイブは、家族バラバラで過ごすことになった。
 昼から1コマだけ講義のあった雪哉は、その講義で、玲と一緒になった。お互い、これが、今年最後の講義だ。
 「イブじゃ、サークルも閑古鳥だね」
 講義が終わり、帰り支度をしながら、玲が肩を竦める。雪哉もそれに同意した。
 「全く、いつからクリスマスは恋人同士のイベントになったのよ。彼氏・彼女持ちだけのためにある訳じゃなし、なんだかなぁ…」
 「バレンタインと同じで、イベントを売り上げアップに繋げたい人間の戦略だろうとは思うけどね」
 「でも、その戦略に嬉々として乗っかってる消費者見てると、売り手側ばっかり責めるのも片手落ちだよね」
 「ハハ、確かに」
 そんな話をきっかけに、『賢者の贈り物』とか『クリスマス・キャロル』の話なんかをしながら、キャンパスを後にした。

 まだ3時過ぎだというのに、冬の曇り空は、早くも夕方の風情を醸し出し始めている。
 竜哉は、学校が終わったら、例の彼女の家に遊びに行く予定になっている筈だ。彼女の家族はどうなるんだ、と怪訝に思ったが、何のことはない、向こうも共働きで、毎年クリスマスはちょっと寂しい思いをしていたのだそうだ。単なるイベント好きじゃなく、そういう事情もあったのか、と納得した竜哉は、プレゼントに手袋を買い、朝から張り切っていた。
 そして、父は―――…。

 『つぐみちゃんも、友達の家でクリスマス会をやるらしいよ。親子では25日にケーキを食べて祝うことにしてるって話だから、雪哉の言う通り、あぶれた大人2人で、寂しくディナーでもしてくるよ』

 俺も忙しいから、と先手を打ったのは、雪哉自身だ。勿論、自分の目の前で仲睦まじくされるよりは、ずっとマシだろう。だから、先手を打ったことは後悔していない。けれど……。
 ―――バカだよな。自分から勧めておきながら、いざそのシーンを想像すると、嫌な気分になるなんて。
 「雪哉んとこって、もしかしてホームパーティーとか開いちゃう家族?」
 なんともタイミング良く、玲がそんなことを訊ねる。
 「…いや。母さんいた頃はやってたけど―――弟も、父さんも、今年は“彼女とデート”、だな」
 「…なるほど」
 玲が、軽く眉を上げる。
 「それで納得。今日の雪哉が、心ここにあらずな表情な理由」
 「……」
 父の相手―――それが誰だか、玲は既に雪哉から聞いて知っている。雪哉が父の再婚に乗り気になれない事情も何もかも……全て、雪哉から聞かされて、知っている。
 「…別に、気にしてないよ」
 少し不機嫌な声で、そう言って顔を背ける。そんな雪哉の反応に、玲は「そ、」と短く相槌を打った。
 「まあさー、たかだか、クリスマスじゃない。うちなんて自営の小売店だから、かきいれ時のこの時期は両親揃って大忙しで、クリスマスでもなーんにも特別なことはやんなかったよ。あ、プレゼントは貰ってたけどね」
 「ふうん…」
 「もうプレゼント貰う歳じゃないし、姉貴なんて、彼氏とお泊り〜、とかバカなこと言ってるしなぁ…。ああ、年々クリスマスなんてつまらなくなる。サンタさん信じて靴下吊るしてた子供時代に戻りたいなぁ」
 そう言って、風に乱れた髪を鬱陶しそうに掻き上げる玲を、横目で見下ろす。
 ―――子供の頃……、か。
 切ないようなノスタルジーが、一瞬、胸を掠めた。
 と同時に、今の自分を振り返り―――苦い思いがじわじわと広がる。

 家族思いで。
 父が、母が、弟が大好きで。
 誰もが信じてきた、自分自身も信じてきた、雪哉像。それは、今も変わっていない。変わったなんて思いたくもない。
 なのに―――父の幸せを笑顔で祝ってやることすらできない。それどころか、今夜父の傍にいるであろう人のことを考えて、実の父親に、憤りと嫉妬を覚えている。

 …寂しい。
 どうしようもなく、寂しい。この心の空洞が、どうしても埋まらない。

 「…玲、」
 「え?」
 「…付き合えないかな。俺たち」

 それは、発作的に出てきた言葉。
 その言葉に、玲は足を止め、顔を上げた。
 見上げてきた目は、驚いたように丸くなっていた。そして、雪哉自身、自分の唐突な言葉に、少々驚いてもいた。そりゃあ、何かきっかけさえあれば、いつかは、とは思っていた。でも―――“今”じゃない。“今”そうするつもりなんて、全然なかった筈なのだ。
 「…え、ええと…」
 何か、話さなくては。急激に焦り始めた雪哉は、必死に言葉を探したのだが。
 「―――…酷いこと言うね」
 僅かに目を眇めた玲に、ポツリとそう言われ、空回りしていた思考が、ストップした。
 「……え?」
 「…あんまりだよ」
 「!」
 玲の目に、涙が浮かんでいた。
 初めて見る、玲の涙だ。何故? もしかして俺が泣かせたのか? ―――あまりに突然の事態に、雪哉は声を出すこともできなかった。
 「…あの人に似た子からの告白には、あの人の身代わりにしちゃうこと恐れて、断ることができるのに―――あたしには、そういうこと言う訳? お父さんとあの人が一緒にイブ過ごすこと考えると、辛くて辛くて、1人じゃいられないから……その辛さを、あたしで誤魔化そうとする訳?」
 「……っ、」
 「しかも、あたしの雪哉への気持ち知ってて、わざとそういう真似するんだったら……最悪だよ」
 「! 玲っ、違…」
 とんでもない。そんなんじゃない。慌てて口にした反論の言葉は、玲にキッ、と睨まれ、口先で止まってしまった。
 「雪哉が、あの人そっくりな子見つけて付き合おうが、お父さんからあの人奪い取って駆け落ちしようが、自棄酒飲んでぶっ倒れようが、あたしは止めないし、雪哉の気が済むようにすりゃあいい、って言う。雪哉の気持ちは、雪哉自身にしかどうすることもできないもん、雪哉のやりたいようにやればいいよ。でもね! あの人を抱きしめられない代わりに、あたしで誤魔化そうとするのだけは、絶対許さない! そんなことしたら、二度と口きいてやんないから…!」

 玲の目から、涙がこぼれ落ちた。
 その涙を拭いもせず、玲はくるり、と踵を返すと、雪哉を置いて走り去ってしまった。

 雪哉は、追いかけられなかった。
 玲に言われたことが、胸に痛すぎて―――足が、1歩も、動かなかった。


***


 年が明けた。
 三が日のうちに、千春がつぐみを連れて新年の挨拶に来た。つぐみの着物姿に、近い将来“父”となる男はデレデレし、近い将来“兄”となる男はボーッと見惚れた。そして雪哉は、「よく似合うよ」と微笑みながらも、その後ろにいる普段着姿の千春の方ばかり気になって仕方なかった。
 と言っても、千春に見惚れていた訳ではない。
 千春が時折見せる、雪哉を気遣うような、どこかぎこちない視線―――それに気づくたび、自分が父と千春の再婚の大きな足枷になっているのを実感し、落ち込んでしまっていたのだ。
 あまりに居心地が悪く、逃げ出したい気分だったのだが、そこに運良く高校時代の友達から誘いの電話が入った。久しぶりに会う友人でもあるので、父も複雑な表情をしつつも「行っておいで」と言ってくれた。

 「雪哉君」
 家を出た途端、背後から声をかけられ、ギクリとする。
 振り返ると、玄関のドアを半分開け、そこから千春が体半分身を乗り出していた。
 「……何?」
 内心の動揺を抑えつつ、訊ねる。すると千春は、少し迷うような表情を見せた後、僅かに眉を寄せ、雪哉の目を見返した。
 「雪哉君は、お父さんと私の再婚には、反対?」
 「…そんなこと、ないよ」
 「じゃあ…賛成?」
 「……」
 「…理由は、言いたくないなら、言わなくていいわ。ただ……どうしても譲れない部分があるなら、賛成できない、って、はっきり言ってね。そしたら、再婚はいったん白紙に戻すから」
 思わぬ言葉に、雪哉は目を見張った。
 「…え…っ? で…でも、もう細かい日程なんかも、決まってるんだろ?」
 「それでも、雪哉君に限らず、誰かが納得できない部分が少しでも見つかれば、白紙に戻すわ。ただ、あんまりギリギリになると、いろんな人に迷惑かけちゃうから……早めに言って欲しいの。私やお父さんに言うのが無理なら、竜哉君やつぐみにでもいいから」
 「……」

 ―――本音なんて…言える訳、ないじゃないか。
 俺は、自分のわがままを通して満足できるほど、もう子供でもないんだ。千春さんも父さんも望んでる再婚を阻止する形になるんだ、ってわかってて―――それでも本音を言うなんて、無理に決まってるじゃないか。

 眉根を寄せる雪哉に、千春は薄く微笑んだ。
 「…誰かに我慢を強いるんじゃ、結婚する意味がないのよ。だって私たちは、“家族”みんなが今より幸せになるために、結婚しようと思ったんだから」
 「……」
 「じゃあ…ね。気をつけてね、夜には雪になるかもしれないから」
 笑みを残し、ドアはパタン、と閉まった。

 

 それから間もなく、大学が始まった。
 キャンパスでは玲とも顔を合わせたが、クリスマスイブのあの一件が尾を引いているらしく、目が合った途端、玲の方から目を逸らされてしまった。そして玲は、同性の友達と並んで座り、屈託のない笑顔で冬休み中の出来事などを語り合っていた。
 親しげな2人の間に割って入るような真似は、雪哉の性格上、無理だ。結局、初日も、次の日も、そんな玲たちを少し離れた所から眺めるのが関の山だった。

 「なんだよ、雪哉。もしかして玲ちゃんと別れたのか?」
 よく講義が一緒になる友人から指摘され、雪哉は軽く眉を顰めた。
 「…別に、付き合ってた訳じゃないよ」
 「でも、いつも一緒にいたじゃないか。そう思ってる奴、多いと思うよ?」
 「……」
 「ふーん…まあ、どっちでもいいや。付き合ってて別れたにしろ、元々付き合ってなかったにしろ、今は玲ちゃん、フリーだってことだよな」
 ぶつぶつとそう呟くと、友人は身を屈め、雪哉の耳元に囁いた。
 「だったら雪哉、ちょっと協力してくれない?」
 「え?」
 「玲ちゃん。前から“いいな”と思ってたんだ。お前とセットになってたから、ちょっとアクション起こすのは控えてたんだけど、フリーなら話は早いや。な? 喧嘩してるなら、仲直りついでに飲み会にでも誘い出してくれよ」
 「……」
 強烈な不快感が、胃の奥からせり上がってきた。
 数列前の席に、友達と並んで座っている玲の後姿を、険しい目で見つめる。顔は見えないが、脳裏に浮かぶのは、好きな作家の最新作の感想を、興奮した様子で延々説明する時の、あのキラキラ輝く目だ。
 何の約束をした訳でもない。お互いに、友人として以上の好意を確かめあったことすらない。けれど、雪哉は間違いなく玲が好きだったし、玲もそうだった筈だ。少なくとも……あの日までは。

 ―――なのに…こいつとの橋渡しを、俺がするのか?
 そして、俺はまた、好きになった人が他の奴と仲睦まじくしてるのを、ただ黙って眺めることしかできない立場に甘んじるのか…?

 「…悪いけど、」
 参考書を、トン、と机の上で揃え、雪哉は、友人の顔を見据えた。
 「協力はしない。玲が好きなら、自力でなんとかしてくれ」
 千春への気持ちに、区切りがついた訳ではない。
 でも―――千春の時と同じ思いをするのは、もう嫌だ。それだけは、今の雪哉にも、迷うことなく断言できた。

 

 そんなことがあった週の、日曜日。
 思いがけない事態が、起きた。


***


 その日雪哉は、課題として出されたレポートを仕上げるため、大学の友達とファミレスでレポート用紙を広げていた。
 「玲も誘ったけど、なんか家の用事があるから、って断られたよ」
 「…ふうん…」
 本当、だろうか。誘った奴が雪哉とかなり親しい奴なだけに、雪哉も来ることは、玲にはお見通しだった筈だ。避けられたのかもしれない―――その可能性を考え、雪哉は周囲には気づかれないよう、密かに唇を噛んだ。

 レポートは、なかなかいい調子で仕上がっていった。
 残すは締めくくりの部分だけになった時、ふいに、雪哉の携帯電話が鳴った。
 「?」
 見ると、“竜哉”と表示されていた。竜哉―――まだこの時間なら、家にいる筈だ。何の用だろう、と訝しげに眉をひそめつつ、雪哉は電話に出た。
 「もしもし」
 『あっ、兄ちゃん!? オレ!』
 「どうした? 何かあったのか」
 そう訊ねる雪哉の声も、少し緊張する。雪哉にそうさせるほど焦った声で、竜哉は叫んだ。。
 『どうしよう! つぐみが……つぐみが、いなくなっちゃったんだよ!』

 

 大急ぎで家に帰ると、竜哉は、玄関に座り込んで携帯を何度もリダイヤルしていた。
 「何回つぐみの家にかけても、出ないんだ」
 「落ち着け。つぐみがいなくなってから、どの位経った?」
 「…30分……いや、40分は経ったかな」
 「じゃあ、電車ならまだ家に着いてないだろ。出なくて当然だ」
 「あ、そうか」
 こりゃあ、相当キテるな―――少し考えればわかることを完全に失念している弟を見て、雪哉はため息をついた。
 竜哉の説明によれば、竜哉の携帯に付き合っている子から電話が入り、その電話に出ているうちに、つぐみの姿が見えなくなったのだそうだ。電話をしていたのは、せいぜい10分。その間、いつの時点でつぐみが出て行ったのかは、全くわからないという。
 「兄ちゃんに電話してすぐ、父さんに電話して、千春さんにも知らせておいた。父さんはこっちに向かってる。千春さんは、家に戻るって」
 「ああ…そうか、あの2人、今日は休日出勤だっけな」
 家の中から誘拐された、というのも変な話だ。となれば、つぐみの意思で出て行ったのだろう。でも、竜哉に何も言わず出て行くのも妙な話だ。竜哉の電話が終わるのを待っていられないような事情でも、何かあったのだろうか。
 「貸す筈だった本を、兄ちゃんの部屋に取りに行った筈なんだ。でも、その本も、床に転がったまんまだった。兄ちゃんの部屋で、何かあったのかな…」
 「俺の部屋?」
 電話では聞かなかった話に、雪哉は少し目を丸くした。
 「俺の部屋行って、いなくなったのか?」
 「え? あ、うん」
 「……」
 急ぎ、靴を脱ぎ、2階にある自分の部屋に向かった。何が起きたかさっぱりわからないが、自分の部屋のことは、自分が一番よく知っている。自分が見れば、竜哉では気づかないヒントを何か見つけられるかもしれない。

 半開きになっていたドアを開けると、出かける前に見たのとは違う光景が、そこには広がっていた。
 ベッドの横にあるカラーボックスの上から、大量の本やノートが、床の上に落ちていた。その中には、竜哉の言う通り、先日竜哉から借りた本も含まれていた。それ以外にも大学の勉強で使う参考書や読みかけのエッセイ、詩集、辞書―――…。
 「……っ、」
 辞書。
 ベッドの下に半分もぐりこむようにして落ちている辞書に目を留め、心臓がドキンといって、止まる。
 ―――まさか。
 慌てて雪哉は、床の上にバラバラに散らばったものを、1つ1つ、ベッドの上に片付けてみた。見落としのないよう、ベッドの下も覗いてみる。そして―――あることに気づいた。

 ない。
 本も、ノートも、辞書も、カラーボックスの上に積み上げていたものは全て揃っているのに、たった1つ、見つからないものがある。

 辞書の最後のページに挟んであった写真。
 千春の―――つぐみの母の、あの写真だ。


***


 「千春さん!」
 雪哉の声に、玄関でオロオロしていた千春が、1、2歩駆け出してきた。
 「ああ、雪哉君…! ごめんなさいね、心配させて」
 「いえ…。つぐみ、帰ってきた?」
 千春の態度を見れば明らかだったが、一応訊いてみる。案の定、千春は暗い表情で力なく首を振った。
 「携帯電話なんて、まだ早いし、電話料金考えたらとても持たせられない、って思ってたけど…こういう時は、持たせとけばよかった、って後悔するわ」
 「…でも、マナーモードにしてて、電話鳴らしてるのに気づかなかったら、“鳴らしてるのに出られないなんて”って、もっと心配するんじゃない?」
 半パニックに陥る千春の様子が、簡単に目に浮かぶ。千春自身もすぐ想像がついたらしく、雪哉意見に、「それもそうね」とバツの悪そうな笑みを返した。
 「それにしても、どこに行っちゃったのかしら…あの子ったら、もう……」
 ため息をつき、そう呟く千春の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
 切ないほどに「母親」の顔だな―――千春の顔を見下ろし、雪哉は、今更のようにそう思った。
 思えば、この前雪哉を呼び止めた時の千春の顔も、種類は違えども、「子供」たちを心配し、その幸せを願っている「母親」の表情だったように思う。再婚しても、千春が雪哉の母になる訳ではないが―――やはり、思い知らされる。この人にとって自分は、「子供」のような存在なんだな、と。

 と、その時、雪哉の携帯電話がまた鳴った。
 急ぎ、コートのポケットから取り出してみると、今度は父からだった。
 「はい」
 『雪哉! 着いたか!?』
 弟をどこか彷彿とさせる声で、父が怒鳴る。その声の大きさに、一瞬携帯を耳から離してしまった雪哉だが、気を取り直して、もう一度耳に当てた。
 「あ…、ああ、今ちょうど着いたとこ」
 『つぐみちゃんは!? つぐみちゃんは、戻ったのか!』
 「…いや…、それが、まだ」
 雪哉の言葉に、電話の向こうの気配が、みるみる落胆していくのがわかる。凄い。電話でこれほどわかるなら、実際に目の前にいたら、相当に凄まじい落胆の仕方なのに違いない。
 『…どこに行っちゃったんだ、あの子は…。あああ、こんなことなら、もう1台携帯買って、つぐみちゃんに持たせておくんだった』
 「…マナーモードにしてたら、逆に心配の種増やすばかりだよ?」
 つい2分前と同じ言葉を繰り返す。返ってきた反応も、ほぼ同じだった。
 『あ、ああ、それもそうか…。ああ、心配だなぁ…。つぐみちゃんは美人だからなぁ。変な犯罪に巻き込まれてたりしたら、どうしたらいいんだ』
 「―――…」

 それは―――説明のつかない、なんとも不思議な感覚だった。
 うなだれている姿が目に見えるような、父の、いかにも心配でたまらないといった声に―――雪哉は、千春に感じたのと同じものを感じたのだ。そう……ああ、切ない位に、「父親」の声だな、と。
 父は、つぐみの父ではない。千春が雪哉の母ではないように。でも……2人にとって、つぐみも雪哉も、そして竜哉も、2人共通の「子供」なのだろう。
 結婚はしていないし、亡くなったつぐみの父、雪哉たちの母の存在も決して忘れることはないが、それでも―――2人の間では、もうお互いの家族の垣根はなくなっている。3人の子供は、2人の中に、同じ認識で存在している―――戸籍や血縁を超えた、共通の「守らねばならないもの」として。

 絡まってほどけなくなっていた心の糸が、少しずつ、ほどけていくのを感じる。
 千春に対する恋心が消えうせた訳でも、何でもないが―――何、だろう? 何かが、あるべきところに少しずつ収まり始めるのを、雪哉は感じた。

 『こっちは、竜哉がその辺を探し回っている。父さんが待機してるから、つぐみちゃんが戻ってきても大丈夫だ。そっちの家は千春さんに任せて、お前がその辺の心当たりを探してみてくれ』
 「…ん、わかった。千春さんに代わる?」
 『いや、いい。何かあったらすぐ電話するように言ってくれ』
 「うん、わかった。じゃあ」
 『頼んだぞ』
 念を押され、電話を切った。ほっ、と息をついた雪哉は、父に言われたことを千春に手短に伝えた。
 「あっちは、父さんが待機して、竜哉が探してるって。俺、その辺探してくるから、千春さんはここで待機しといて」
 「え、ええ、わかったわ」
 「何かあったら、父さんにも電話してやって。…じゃ」
 「あ、雪哉君!」
 さっそく探しに行こうとする雪哉を、千春が慌てて呼び止める。
 「これ、持って行って」
 そう言って千春が差し出したのは、懐中電灯だった。確かに、そろそろ日が落ちて暗くなり始める。苦笑した雪哉は、ありがとう、と言ってそれを受け取った。

 

 懐中電灯片手に、雪哉が向かったのは、近所の公園だった。
 雪哉は、この辺にはさほど慣れ親しんでいる訳ではないが、それでも、子供の頃から何度も千春たちの家に遊びに来ていたので、この公園にも何度か来たことがあった。竜哉やつぐみとも、ここで遊んだことがある。そして何より―――この公園にめぼしをつけたのには、ある理由があった。
 あれは確か、つぐみが6つの時。遊びに来た竜哉と喧嘩になったつぐみは、千春に叱られ、泣いてしまった。「私、悪くないもんっ」と言って家を飛び出したつぐみを、父と雪哉でほうぼう探し……そして見つけたのが、この公園だったのだ。
 もしかしたら、と思って行ってみると、予感的中―――つぐみは、ロケットの形をしたコンクリートでできた遊具の中で、膝を抱えてうずくまっていた。
 「……やっぱり、ここだった」
 懐中電灯で中を照らしながら、雪哉が苦笑を浮かべる。
 つぐみは、心細そうな、寂しそうな顔をして、ますます体を縮めた。どうやら、素直に出てくる気はないらしい。しょうがないな―――雪哉は、狭い遊具の中に何とか体を入れ、つぐみの隣に腰を下ろした。
 「…みんな、心配してたよ」
 「……ご…めんなさ、い」
 抱えたつぐみの膝の上に、涙が一粒、落ちた。
 肩を震わせ泣き出すつぐみに、雪哉は小さく息をつき、その頭を軽く撫でた。
 「俺に謝らなくていいから―――千春さんと竜哉に謝って。2人とも、真っ青になってたから」
 「……」
 膝を抱えたまま、つぐみは、頭を何度も振った。違う、そうじゃない、とでも言いたげに。
 どういう意味か測りかねていると、つぐみは、スカートのポケットをごそごそと漁り、中から何かを引っ張り出した。そして、それを雪哉に差し出した。
 それは、雪哉の部屋から消えていた、例の写真だった。
 「……」
 「…ごめんなさい…」
 震える声で、つぐみが呟く。ごめんなさい―――つぐみが頭を振った理由が、わかった。今の謝罪も、さっきの謝罪も、みんなに心配をかけたことへの謝罪ではない。ただ1人、雪哉への謝罪―――雪哉の秘密を知ってしまったことへの、謝罪だ。
 「―――…やっぱり、つぐみだったのか…」
 深いため息と共に、思わず呟く。写真がなくなっているのに気づいた時点で、ほぼ経緯は察してはいたが……さぞ、驚いただろう。まさか雪哉が、自分の母親を恋愛対象として見ていたなんて、つぐみからしたら青天の霹靂だったに違いない。
 「…ねえ、ユキちゃん」
 ボロボロ泣きながら、つぐみが顔を上げる。
 「私、ユキちゃんの気持ち、わかるの。イヤ、だよね。好きな人だもん。好きな人が、結婚しちゃうんだもん。しかもその相手が…」
 「……」
 「…やっぱり…ダメ? 辛すぎて、おめでとう、って言えない? 私、ママにも、佐藤さんにも、幸せになって欲しいよ。でも…っ、でも、ユキちゃんがどうしても辛い、って言うなら…っ」

 それ以上は、上手く言えないようだった。写真を雪哉に差し出したまま、つぐみは、ヒック、と何度もしゃくりあげた。そんなつぐみを、雪哉は、少し驚いた顔で眺めた。
 てっきり、自分の親にそんな感情を抱いていた雪哉を、軽蔑しているだろうと思ったのに―――こんなことを知られては、父と千春が再婚した後、兄と妹として、上手くやっていけないんじゃないだろうか、と不安にさえ思ったのに。
 ―――お前は、わかってくれたんだな、つぐみ。
 理解してはもらえないだろう、と、ひとり、雪哉が抱え込んでいた寂しさと辛さを、つぐみは理解してくれた。そして、どうしても無理なら、雪哉の味方をしてもいい、と言ってくれた。
 …いい妹だ。実の妹でも、こんな風に理解してくれたかどうか、わからない。雪哉は、心の中で、つぐみに深く感謝した。

 つぐみの手から、千春の写真を抜き取る。
 「つぐみ」
 顔を上げたつぐみに、雪哉は懐中電灯を差し出した。
 「…な、に?」
 「これ、持っててくれるか」
 「? …うん」
 懐中電灯が、雪哉の手から、つぐみに渡る。手元が明るく照らされるのを確認した雪哉は、Gパンのポケットから、家を出る時忍ばせてきたライターを取り出した。
 「どうしてライターなんて持ってるの?」
 雪哉が喫煙者じゃないことを知っているつぐみが、まだ涙の止まらない目を、不思議そうに丸くする。そんなつぐみに、雪哉は、薄く微笑んだ。
 「…こうするために、持って来たんだ」

 シュッ、と、ライターを点ける。
 小さな炎が、小刻みに揺れていた。その炎が―――千春の写真の端に、燃え移った。

 つぐみが、息を呑む。
 雪哉も、何も言わなかった。
 どちらも声を発しないうちに、火の手はどんどん広がっていって、やがて雪哉の指先に迫った。火の熱さを感じる直前、指を離すと、写真は、黒い煤を上げながらヒラリと地面に舞い落ち―――やがて、黒い灰となった。


 ―――これが、初恋の、最後の炎。
 長い年月、秘め続けてきた想いの、最後の残り火だ。

 さっき、つぐみを心配して、はからずも父と千春が同じようなピントの外れたことを言い、同じような動揺の仕方をするのを目の当たりにして―――思った。ああ、自分の気持ちがどうであろうと、この2人はもう“家族”なんだな、と。
 そして、こんな風に2人に心から心配してもらえているつぐみと、自分は同じ立場になるのだ、と思ったら―――まるで思い描けなかった未来が、少し、見えた気がした。
 父がいて。千春がいて。やんちゃ者の竜哉が2人を困らせ、つぐみが2人を心配させ―――そんな弟や妹をたしなめつつも、やはり父や千春に何かと心配をかけてしまうであろう、自分の姿。5人で作る、新しい“家族”の姿が。

 多分、千春に対する恋心が消えるには、まだ暫くの時間が必要だろう。それは、仕方ない。自分の意思でどうなるものでもない、と諦めた。
 けれど―――この想いを、別のものに変えるのは、そう難しいことではないかもしれない。
 捨て去るのではなく、変えるだけのことだ。別の想い―――“家族愛”に。


 ―――…さよなら。千春さん。
 まだ暫く、胸は痛いけれど―――ウエディングドレス姿のあなたには、きっと、おめでとうを言えると思うから。
 さようなら―――俺の、初恋の人。


 「…ごめんな、つぐみ。心配かけて」
 燃え落ちた写真を見て、呆然としているつぐみの頭を、雪哉はもう一度、軽く撫でた。
 ―――うん…。もう、大丈夫。
 自分の中の想いを確かめ、頷く。雪哉は、つぐみの涙の浮かんだ目を見つめ、微笑んだ。
 「みんなで―――家族に、なろうな」


***


 キャンパスの入り口で待つ雪哉に気づいた玲が、足を止めた。

 「……」
 玲の顔が、少し、強張る。
 友達が一緒だったら、機会を逃してしまうかもしれない、と危惧していたが―――どうやら神様は、雪哉の味方だったらしい。マフラーを巻き直す玲の隣に、彼女の友達らしき姿は見当たらない。安堵して、雪哉はほっと息をついた。
 「…1人?」
 話を切り出すきっかけを作るように、雪哉が訊ねる。玲は、少しよそよそしい態度のまま、小さく頷いてみせた。
 「…そっちは?」
 「俺も、1人」
 「…そう」
 「―――この前は、ごめん」
 いきなり核心に迫られ、玲の顔が、再び緊張する。軽く唇を噛んだ玲は、無言のまま視線を少し落とし、首を何度か振った。
 「あたしこそ……ごめん。一方的に、まくしたてて」
 「玲が、謝ることないよ」
 「……」
 「…再婚、賛成することにした」
 呟くように、雪哉が言う。
 その言葉に、弾かれたように顔を上げた玲は、大きく目を見開いた。
 「ど…、どうして…?」
 「…うん…、なんか、上手く説明できないけど」
 「…大丈夫なの?」
 ―――無理して、ものわかりのいい息子を演じてるだけじゃ、ないの?
 玲の眉が、心配げにひそめられる。その表情だけで、言葉にしなくても、玲が雪哉の心情を推し測って胸を痛めているのがわかる。雪哉は、胸がふわっと少し暖かくなるのを感じた。

 そう。玲はいつだって、この件については、何も言わなかった。
 言いたいことをズバズバ言い、自分の考えをストレートにぶつけてくる玲が、何故か、雪哉の千春に対する恋心については、一切口を挟もうとはしなかった。ただ黙って、雪哉が自分の気持ちに折り合いをつけるのを、静かに見守ってくれていた。
 自分たちの間にある、危うい均衡で保たれている感情に、玲も気づいていただろうに―――気づいていたからこそ、時には、雪哉が口にする千春への想いが、辛かったり苦しかったこともあっただろうに―――それでも、雪哉が、雪哉自身の手で決着をつけるのを、玲は黙って待っていてくれたのだ。

 「…まだ、完全に、ゼロになった訳じゃないけど―――恋愛感情を1としたら、家族としての好意が3、位かな」
 「…なかなか、ファジーな比率だね、それ」
 雪哉の言葉に、今までになかった余裕と落ち着きを感じたのだろう。玲は、表情を和らげ、くすっ、と小さく笑った。その笑みにつられるように、雪哉も笑い返した。
 「それに―――余っちゃた恋愛感情の行き場も、俺には、ちゃんとあるし」
 「……」
 「改めて、言うよ」


 付き合えないかな、俺たち。

 友達として、だけじゃなく―――今度は、彼氏、彼女として。


 二度目の告白に、今度は玲は、嬉しそうな笑みを返してくれた。


1400000番ゲットのあこなさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「ちょっと切ないけどいい話」。「キリリク断念ストーリー・ランキング」とセット売り、という、超法規的な作品になってしまいました(汗)
キリリク断念の方のテーマを見て、この作品を見ると、「おや?」という点が、1点。そう。竜哉君―――彼も実は「好きな人と親の再婚できょうだいになっちゃう話」なんですよ(笑) そんな訳で、この話は、キリリクと断念、両方を兼ね備えていたりします。


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