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04 : 「そら」の住人

 ―――空が、低い。
 火をつけたラッキーストライクをくわえると、多恵子は、僅かに灰色がかった空を見上げ、大の字に寝転がった。
 2月最後の空は、晴れていてもどこか曇ってるみたいに見える。屋上でこうして寝転んでいると、手を伸ばせば届くんじゃないか、と思う位に、低い。
 煙を溜め息と共に吐き出し、煙草を指に挟む。目を閉じると、僅かに吹いている風の動きを頬に感じた。明日から春休み―――でも、その風に、春のにおいは感じられなかった。

 多恵子は、分を(わきま)えている。
 自分は“友達”、仁藤すみれは“彼女”―――ヒステリックな彼女のご機嫌を損ねれば、そのとばっちりは久保田が食らうことになる。彼女を宥めるために久保田がすることは、当然、彼女が喜ぶようなこと―――即ち、多恵子の気分が悪くなるようなことだろう。
 すみれに、拗ねるための材料を与える気などない。
 拗ねまくって、駄々をこねて、久保田にべたべたと甘える、そのチャンスをすみれに与えたくない。
 だから多恵子は、大学内では、久保田の周囲から姿を消している。やろうと思えば、そう難しい事ではない。学部も違うし、元々行動範囲も異なっているのだから。
 その代わり、バイト先でだけは―――あのカウンターの中にいる久保田にだけは、少しだけ居場所を分けてもらう。あの空間には、まだすみれの視線は無いから。
 以前のように、語りあい、笑いあう。そんな穏やかな時間を、少しだけ貰う。それで十分。

 春休みが、待ち遠しかった。
 春休みになれば、すみれの目を気にしなくて済む。苛立つ昼がなくなり、穏やかな夜だけが残される―――空白になった昼間は、「そら」のことでも考えながら、のんびりと漂っていればいい。そんな春休みが、とても待ち遠しかった。

 多恵子は、灰を床に落とすと、再度煙を吸い込んだ。
 体の中で(くすぶ)る苛立ちが、ほんの少しだけ和らいだ気がする。けれど、それがただの錯覚であること位、多恵子はとっくに気づいてしまっている。錯覚すらも、今では難しい。

 昨日は、バイト先のジャズ・バーが休みで、久々に軽音楽部の連中と飲みに行った。
 久保田やカルテットの仲間とは絶対にやらないような、ネジが飛んでしまったようなバカ騒ぎ―――目が覚めた時、多恵子は、部長の部屋のベッドの上で、何も身につけずに寝ていた。
 今年に入って、抱かれたのは部長で3人目だ。誰でもよかった。「お気に入り」でさえあれば。
 親愛のキスの拡大バージョンみたいなもの―――そう考えれば、別段どうってことはない。好意を持ち合ってる同士が、一時快楽を共有する。…正常だ。嫌いな男や見ず知らずの男に抱かれるよりは。
 割り切ればいい。これも親愛の情の示し方の一つだ、と。
 「今を楽しむ」行為の一つだ、と。

 ―――思わなければいい。ある事実から、目を背けるための行為だなんて。

 「―――多恵子!」
 突然、呼び声がして、多恵子は目を開けた。
 寝転んだまま頭を傾けると、少し蒼褪めた顔の久保田が、こちらに歩いてくるのが見えた。
 「…何。そんな怖い顔して」
 だるい体を引きずるようにして、起き上がる。煙草を挟んだ指で、少し伸びすぎてしまった不揃いな前髪を梳くと、その煙草を、久保田がひったくるようにして取り上げた。
 「…お前、昨日、どこに行ったって?」
 久保田の声が、微妙に震えていた。その声音に、直感的に察する。彼が何故、ここに来たかを。
 「…ツネさんとこ」
 部長の愛称を、素直に告げた。久保田の顔が、余計蒼褪める。
 「―――じゃ、ほんとのことか? 軽音の連中が噂してたことって…」
 「どういう噂か知らないけど」
 久保田の手から煙草を奪い取ると、多恵子は、笑いもせずに続けた。
 「合意の上だから」
 「……」
 「合意なら、問題ないよね? 僕がツネさんと寝て、何が悪いの。ツネさんも僕もフリーだし、お互いに“お気に入り”だし。それとも何、女にはそーゆー衝動がないとでも思ってんの?」
 「…お前な…」
 「隼雄だって、やってんじゃん」
 そう口にして、自分で傷ついた。
 震えそうになるのを耐えながら、煙草をくわえ、無理矢理皮肉めいた笑いを口元に浮かべる。
 「元々、モラル意識なんて、僕とは無縁だし。手首切ったり、睡眠薬でトリップするよりは、隼雄的にはマシなんじゃない?」
 久保田は暫く、理解不能な生き物でも見るみたいに、多恵子の顔を見下ろしていた。が、やがて大きな溜め息をひとつつくと、コンクリートの地面にどかっと胡坐をかいた。
 「―――あのなあ、多恵子」
 ぐしゃっと髪を掻きまぜた久保田は、多恵子の顔を真正面から見据えた。その顔に、もう“怒り”はない。ひたすら“心配”だけに覆われている。
 「俺はお前の保護者でも何でもないから、お前の行動にとやかく言う気はないよ。けど―――もうちょっと、自分を大切にできないか?」
 「してるよ」
 「してねーだろ!」
 「してる。嫌いな奴や知らない奴は相手にしないし、その気がなければ絶対OKしない。優しくて、避妊や病気にちゃんと配慮できる頭を持ってる奴だけを選んでる。大切にしてるよ、ちゃんと。ただ、隼雄と僕の尺度が違うだけで」
 よく考えると、滑稽な話だ。自殺を何度も繰り返している人間が「自分を大切にしてる」なんて。思わず、多恵子の口元に、無理矢理じゃない自嘲の笑みが浮かぶ。
 けれど、久保田は笑わなかった。相変わらず心配そうな顔で、眉を寄せるようにして、多恵子の顔を凝視している。
 「―――けど、俺には、そうは見えねーぞ?」
 「…そう?」
 「なんだか多恵子は、いつ見ても痛々しく見える。自分を傷めつけて、何かを確かめようとしてるみたいに見える」

 多恵子の顔から、笑みが消えた。煙草を挟んだ指が、今度こそ震える。

 傷めつけて、確かめている。

 まだ、ここが「そら」じゃないことを。

***

 「2年生になって、何か変わった?」
 膝を抱え、道行く人々の誰かが足を止めてくれるのを待ちながら、シンジが多恵子にそう訊ねた。
 多恵子は、シンジが描いた猫の絵に色鉛筆で色をつけながら、小さく笑った。
 「シンジ、気ぃ早すぎ。まだ始まって3日だよ?」
 「いやー。いつになったら、多恵子が見事なドイツ語を披露してくれんのかなー、なんて思ってさ」
 「まだまだ。大学って、2年までは、学部学科はほとんど無意味。3年からだよ、本格的にやるのは。アウシュビッツは遠い遠い…」
 「なんでアウシュビッツの資料に興味がある訳?」
 「なんでだろ? ―――人が一杯、死んでるから、かな」
 多恵子の言葉に、シンジの表情が曇る。
 シンジは、人の死に対して、あまり冷静でいられる方ではない。痛そうにされるのが駄目なのと同様に、死にそうな状態を目のあたりにするのも駄目だ。だから、多恵子の手首に幾筋もの傷跡を見つけた時は、初めての時多恵子があげた悲鳴以上に、胸がしめつけられた。
 「―――多恵子はさ。なんで、そんなに、死にたがるのかな」
 危うすぎるので、今まで訊かなかったこと。死が話題になったのに背中を押されて、シンジは思わず訊ねてしまった。
 多恵子は、さしたる反応を示さない。相変わらず、膝を抱えた状態で、地面に置いたスケッチブックの上を、色鉛筆でなぞっている。その表情は、不思議な位に穏やかだった。
 「ハハ…、それ、隼雄にも訊かれた」
 「…そりゃ、普通は訊くよ」
 「でもさ。話しても多分、誰も理解できないよ」
 「オレにも無理?」
 「無理」
 「なんで」
 「シンジも、僕とは違う世界の人間だから」
 シンジの眉が、怪訝そうにひそめられる。その表情を見て、多恵子は面白そうにクスクス笑った。

 シンジも、佐倉も、隼雄も―――私とは、違う世界の人間。
 誰も、知らない。「そら」を。
 私はいつも、中空を彷徨(さまよ)っている。地上と、「そら」とを、心が行き来している。
 地上からは“私の心の中の隼雄”が、「そら」からは“あの人”が、私の手を掴んで、なんとか自分のところに留まらせようとする。行くな、と。こっちへ来い、と。
 そんな不安定な世界を、誰も理解できない―――それは、結構、楽しい。
 理解できなくて、振り回されて、今のシンジみたいに怪訝そうな顔をする。…それで、いい。理解されたくもない。

 だから、隼雄。
 …もう、引き止めないで。

 「―――ねぇ、シンジ」
 クスクス笑いをやめた多恵子は、色鉛筆を置き、抱えた膝に頬を押し当てた。シンジに向けられたその目は、どこかしら虚ろだった。
 「前にシンジ、言ってたよね。シンジは“優しさだけが取り柄”だって」
 「ん? ああ…まーね」
 「…だったら、1つ、お願いしちゃおっかなー…」
 悪戯を思いついたようなセリフを口にする多恵子は、その言葉とは裏腹に、ほんの僅かの笑みも見せていなかった。

***

 ―――サイテーな人間だ。私は。

 少し悲しそうな顔をしているシンジを見て、多恵子は半分、後悔していた。頼むんじゃなかった、と。

 「―――ごめんね、シンジ」
 「…また謝ってるし」
 「だって、シンジが」
 「いいからさ」
 らしくない、気弱な、今にも泣き崩れそうな顔をしている多恵子に、シンジは困ったような笑顔を見せた。まだペタンと座り込んだまま横たわろうとしない彼女を誘うように、シンジはその細い腕を引いた。
 「そろそろ、オレの名前呼ぶの、やめなよ」
 誘いに応じたように、シンジの隣に横たわった多恵子は、自分から言い出しておきながら、酷く戸惑った顔をしていた。
 「…ほんとにいいの?」
 「うん。…でも、多恵子こそ、いいの? オレと“彼”、全然違うよ? 本当に思い込める?」
 多恵子は“彼”の名前を出していない。けれど、シンジは明らかに、ある一人の男を思い浮かべているらしい。自分よりシンジの方が、案外先に気づいていたのかもしれない―――そう感じて、多恵子はクスリと笑った。
 「―――いいよ。全然違っても平気。だって、知らないもん。あいつの手が、どんな感じか。…抱きしめられた事すら、ないから」
 「…そっか」
 短い相槌を打つと、シンジは起き上がり、仰向けに横たわった多恵子を、真上から見下ろした。まだ不安そうに瞳を揺らしてる多恵子がいたたまれなくて、手でそっと瞼を閉じさせる―――それにシンジ自身、これから自分がどんな表情をするか、多恵子に見られたくはなかった。
 「目、瞑ってて」
 暗闇の中、耳元でシンジの声が響く。
 「…多恵子が誰の名前呼んでも、オレ、忘れるから」


 ――― 一生、彼にだけは触れない。
 誰に触れても、誰に触れられても、彼にだけは一生触れないし、一生、触れさせない。
 だって、私は、罪深い人間だから―――こんな私と交われば、彼は醜い色に染め替えられてしまう。私が目を奪われた、あの命の輝きを失ってしまう。…だから、絶対に、彼にだけは触れない。

 けれど、苦しいから。
 毎日毎日、認めたくないものから逃げ続けるのは、苦しいから。

 一度で、構わない。
 ―――夢の中でだけ、触れさせて。


 「―――多恵子?」
 「…うん」
 今、呼んでいるのは、彼の声。
 髪を梳いてくれる手は、彼の手。体中を熱く這っていく唇は、彼の唇。―――実物を知らなければ、そう、思い込める。
 「…名前、呼べよ」
 「……」
 「呼んで―――多恵子」
 「―――…隼雄…」

 夢で、構わない。
 手に入れられたから―――やっとこれで、地上(ここ)から解放される。


***


 4月の空は、淡い水色をしていた。
 絵筆で刷いたような白い雲が、空全体をふわりと覆っている。眩しい―――空を見上げた多恵子は、思わず目を細めた。

 新学期が始まった日、見た光景―――まるで多恵子がそこにいるのを知っているかのように、わざとらしい位に久保田にべったりと寄り添う、すみれ。あの笑顔に、春休み中手に入れていた穏やかな気分は、一瞬にしてぶち壊された。
 嫌だった。すみれに、神経を逆撫でされるのは。
 でも、もっと嫌だったのは―――そんな瑣末な事で神経を逆撫でされるほど、久保田に執着している、自分自身だった。

 「…もう、大丈夫」

 思わず、口に出して、そう呟く。
 昨日、欲しかった物を手に入れた―――夢の中では、あるけれど。シンジに対して残酷な事をした、という罪悪感はあるけれど。
 久保田に執着し、すみれに苛立ち、そこからの逃避として「そら」を夢見るような自分が許せなかった。「そら」は、そんな場所じゃない。多恵子が本来いるべき場所―――それが、「そら」なのだから。
 地上に生れ落ちたのが、間違い。仮住まいのものに執着するのは、見苦しい。
 …でも、もう、大丈夫。シンジのおかげで、手に入れられたから。
 もう、執着は、ない。

 多恵子は、屋上の床にペタンと座り込むと、放り出していたバッグを引き寄せた。
 ポーチを引っ張り出し、その中から、例のお気に入りの剃刀を取り出す。去年の6月に使ったやつは、久保田に没収されてしまった。だからこれは、まだ一度も使っていない、新品のやつだ。
 急かされる気持ちも、逡巡する気持ちも、今日はない。いつもそういった気持ちが邪魔をするから、失敗してしまうのだ。慎重に、でも潔く―――大事なのは、失敗しないこと。
 多恵子は、どこか幸せそうな笑みを浮かべ、剃刀の刃を、ゆっくりと手首に当てた。

 いや。

 当てようとした。

 剃刀の刃が手首に触れかけたその刹那、突如、階段から続く鉄製の扉が、音を立てて開け放たれた。
 「―――!」
 はっ、と顔を上げ、息を詰めた多恵子は、剃刀を手首に当てようとしている姿のまま、その突然の闖入者と対峙する羽目になった。

 立っていたのは、見覚えのない男だった。
 紺色の、洗いざらしのダンガリーシャツをTシャツの上から羽織り、使い込まれたデイパックを肩にかけている、男。そいつは、いかにも「自殺寸前」な多恵子を目の前にしながら、特に驚いた顔もせず、そこに立っていた。
 どうする気なのだろう? ―――息を詰めたまま、じっと彼の行動を待つ。
 慌てて止めに入るか、見なかったふりをして逃げ出すか―――そんな反応を予想していた多恵子は、次に彼が取った行動に、唖然とさせられた。
 彼は、邪魔な先客がいたことに、少し気分を害したような顔をした。が、冷たい目で多恵子を一瞥し、そのままスタスタと、多恵子から離れた場所へと歩いていき、そこに腰を下ろしてしまったのだ。

 「……」
 ―――予想外すぎ。
 あまりにも予想外な行動に、盛り上がっていた気分が、一気に()がれる。多恵子は、屋上のほぼど真ん中に陣取って胸ポケットから煙草を取り出す彼を、茫然自失といった風情で眺めるしかなかった。
 「―――ちょっと、ねぇ」
 相手が煙草に火をつけ終わるのを待って、思わず多恵子は声をかけた。
 不機嫌そうな表情の彼は、一応、多恵子の声に反応した。煙を吐き出すと同時に、目にかかっていた前髪を乱雑に掻き上げた彼は、なんだよ、という風に眉をひそめた。
 「なんか、言うことないの」
 「え?」
 「この状況を見てさ」
 多恵子はまだ、剃刀を手首に当てようとしている「自殺寸前」状態のままだった。そんな多恵子の姿を、興味なさそうに軽く見遣った彼は、
 「―――遠慮なく、続ければ?」
 そう言い放ったのだった。

***

 多恵子は、今では何の意味も為さなくなった剃刀をコンクリートの上に置き、所在なげに膝を抱えて座っていた。
 遠慮なく続けろ、と言われても、そんな気分は今では忘却の彼方だ。また、未遂―――いや、それ以下。情けない。恥ずかしい。真剣に飛ぼうとしていた自分自身に対して申し訳がたたない。
 …でも、全ては、こいつのせい。
 恨みがましい目で、前方を睨む。そこには例の、妙な奴―――煙草をくわえたまま、眩しそうな目をして、空を仰いでいる、男。
 ―――なんなんだろう、こいつ…。
 自分が「常識的」だなんて、微塵も思わない。止めて欲しくて狂言自殺をやる連中とも違うから、止めるのを期待していた訳でもない。が―――彼の言動は、そんな多恵子にとっても、あまりにも予想外だった。あのクールな佐倉ですら、多恵子が手首を切ろうとした時は、大慌てで剃刀を取り上げようとした。あれがおそらく、常識的な反応。こいつの反応は、明らかに非常識な反応。
 なんだか急に疲れてきた。多恵子は、バッグの中に手を突っ込んで、煙草を探した。
 ―――ないじゃん。
 昨日、最後の1本を吸ってしまった事を思い出す。思わず舌打ちした。
 「―――ねえ」
 多恵子が、少々不貞腐れたような声で呼びかけると、男は、眩しそうな目のまま、多恵子の方を向いた。
 「あんたのソレ。銘柄、何?」
 「…マルボロ」
 「1本めぐんでよ」
 迷惑そうな顔をした男だったが、煙草1本の事で騒ぐのは馬鹿らしいと思ったのか、彼は胸ポケットからマルボロの箱を引っ張り出すと、ぽん、とコンクリートの上に放り出した。
 膝歩きで近づいて行った多恵子は、マルボロを拾い上げながら、チラリと彼の様子を窺った。
 無表情、かつ、無関心―――そんな表現がピッタリな感じ。独特な色合いをした黒髪が、風にあおられて乱雑に(なび)く。そこから覗いた目は、確かに多恵子の方を向いてはいるが、多恵子に関心を持っているとは到底思えない、白けた目だった。
 「1年生?」
 マルボロの放置されていた位置に腰を下ろした多恵子は、1本口にくわえつつ、首を傾けた。が、彼は、聞いてるんだか聞いてないんだか、その質問に答えず、空に目を戻してしまった。
 ―――無視されると、ムカつく。
 「僕は2年だけどさ。この屋上に気づいたのって、入学して1ヶ月経ってからだよ。まだ入学したばっかなのに、よく見つけたね」
 「…あんたが注意力散漫なだけなんじゃない」
 その目同様、白けた口調で、そう呟く。
 ―――馬鹿にされるのは、もっとムカつく。
 多恵子は、珍しくヒートアップしてしまった。
 「ねえ。アウシュビッツって知ってる? ナチス・ドイツ軍が、ユダヤ人捕虜を山ほど送り込んだ“死の収容所”。あれってさ、ドイツ軍が開発した毒ガスの実験施設の1つでもあるんだよね、確か。時には、目ぼしい捕虜選んで、最新の毒を与えて、死ぬまでの様子をずーっと記録したりしたんだって。和訳でそーゆー本読んだんだけど、もしかして日本人には刺激強すぎな部分を誤魔化してるかもしれないじゃない? だから原典を読みたくて、ドイツ語専攻したんだ」
 「……」
 「想像してみなよ―――捕虜が、苦しくてのたうち回ってる様子とか、死ぬ前に起こす痙攣の激しさなんかを、ガラス窓越しに観察しては、それをせっせとメモするんだよ。そういう時の気分て、どんなもんかな。いくら訓練受けてても、ドイツ兵だって人間だよ? やっぱその夜は夢でうなされたりするもんかな。それに捕虜の方もさ、そうやって死ぬ気分て、どんな感じなんだろう? ただの病死や事故死よりは、はるかに恨みが強いよね。やっぱりさ、そういう死に方だと、霊体になってこの世に留まるのかな。てことは、アウシュビッツは捕虜のユーレイだらけ!? ね、あんた、どう思う?」
 唖然とさせてやりたくて、一気にまくしたててやった。
 が、彼の反応は、乏しかった。辛うじて多恵子の方に目だけは向け、やっぱり馬鹿にしたような冷笑を口元に浮かべる。
 「…何。その笑い方」
 「―――つまんねー」
 「は!?」
 「やんねーの? 続き」
 ―――そこに話が戻る訳!?
 唖然とさせるつもりが、唖然とさせられた。
 唖然とさせられっぱなしは、癪だ。多恵子は、怒ったように口を尖らせ、冷やかに笑う彼に虚勢を張ってみせた。
 「邪魔をしたのは、どこのどいつだよ。続きをやろうにも、そんな気殺がれちゃったね、あんたのせいで」
 「邪魔、ねぇ…」
 ますます馬鹿にしたような顔をした彼は、煙草を床でもみ消し、よっ、と弾みをつけて立ち上がった。
 そのまま、さっきまで多恵子が座っていた所へと歩いて行くと、彼は、コンクリートの上に放り出したままになっていた剃刀を拾い上げた。それを見て、さすがの多恵子も、顔色を変えた。
 「ちょ…っ、勝手に、触るな!」
 慌てて立ち上がり、彼の手から剃刀を奪おうとした。が、久保田ほどではないがそこそこ長身な彼がひょい、とその手を挙げてしまうと、多恵子の手は虚しく宙を掴んだだけだった。
 「2人」
 「え?」
 「俺が、昨日ここに1時間いて、その間に顔みせた人数」
 何が言いたいのか、わからない。多恵子は、若干楽しげな顔になった彼を見上げ、訝しげに眉をひそめた。
 「その位の頻度で、誰かしらが来る訳だ、屋上に。剃刀でリストカットして出来る位の傷じゃ、すぐ発見されて止血されておしまい―――やるんなら、もっと人の来ねーとこにするか、確実に蘇生不能になる方法選べよ」
 「……」

 ―――もしかして。
 もしかしてこいつ、狂言だと思って、なめてかかってる―――?
 本気で死ぬ気なんかないって思って、馬鹿にしてる!?

 怒りが、頂点に達した。多恵子は眉を上げると、反論しようと口を開けかけた。
 が、次の瞬間。
 彼が手にした剃刀が、多恵子の喉元にピタリ、と当てられた。
 「―――…っ!!」
 思わず、息を呑む。
 背筋が、喉を切り裂く痛みを予感して、びくりと緊張する。多恵子は信じられない、という風に大きく目を見開いて、彼の顔を凝視したまま硬直した。
 少しでも動けば、首の皮が切られるであろう、絶妙な位置。動けない―――1ミリも。どんな時より今、死をリアルに実感した気がした。

 でも、ショックなのは。
 今、この瞬間に、自分自身を襲った感情。
 それは―――認めたくはないけれど、それは、間違いなく「恐怖」だった。

 多恵子の反応が予想通りだったのか、彼はふっ、と笑って、剃刀を多恵子の喉元から離した。彼がそれを投げ捨てると、それはコンクリートにぶつかって、頼りない位に微かな金属音をたてた。
 「―――半端なヤツ」
 「……」
 「狂言だと思われたくなかったら、続けられる位の度胸つけろよ」

 ―――言い返せない。
 前は、そうだった。
 以前の多恵子なら、誰が乱入しようが、平然と手首に刃を食い込ませていた筈だ。その瞬間、周囲のことなど、見えていない。度胸とか本気とか、そういう事以上に―――「そら」を望む気持ちが、ここに留まる気持ちより、はるかに強かったから。
 でも、できなかった。こいつの登場で簡単に殺がれてしまう程度の力しかなかった。
 執着を捨てたつもりでいても、まだ、繋がれている証拠だ。
 ここに。
 いや―――久保田隼雄という存在に。

 多恵子が、何も言い返せずに立ち尽くしていると、彼は、まるで、獲物のネズミに興味を失った猫みたいに、多恵子の横をすり抜けて行った。
 腑抜けたように、その後姿を見送っていると、彼は、床に押し付けてあった吸殻を拾って、携帯用の灰皿の中に放り込んでいた。やることは無茶苦茶な癖に、妙なところでマナーの正しい奴だ、と、頭の片隅で思う。
 「―――あんた、なんて名前なの?」
 デイパックを拾い上げた彼の背中に、そう訊ねた。
 すると彼は、ほんの少しだけ振り返って、不敵な笑みを浮かべてみせた。
 「死に掛けてる奴に教えても、意味ねぇし」
 「…ケチ」
 「知りたきゃ自分で調べな。俺はあんたに、興味ない」
 そう言い残し、彼は、鉄製の扉の向こうへと消えてしまった。

***

 彼がいなくなってもまだ、多恵子は、彼が消えたドアをぼんやりと見つめたまま、その場に佇んでいた。

 ―――初めて、見つけたかもしれない。
 同じ世界の人間を。

 「(りく)…」
 無意識のうちに、その名を口にしていた。
 「…もうちょっと、こっちにいても、いいかな…?」

 せめて、あいつが何者なのか、つきとめるまで。


 手を伸ばせば届く所にあった「そら」は、また少し、遠のいた。


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