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そいつとの二度目の対面は、写真部にモデルを頼まれた佐倉にくっついて行った時のことだった。
「でも、佐倉ってプロじゃん。写真部からも金取んの?」
「雀の涙ほどね。基本的にはボランティア」
そう言って佐倉は、落ちてきた髪を耳にかけた。
佐倉の髪型は、この1年で、ワンレングスから緩やかなウェーブのかかったロングヘアに変わった。ファッション誌では、基本的にエレガント路線で起用されているらしい。新学期が始まって、気温が上昇するにつれて「あー、バッサリ切りたい! 多恵子位短くしたい!」と苛立っているが、契約上、髪型変更は不可だ。
多恵子の髪は、2年生になってから、色が変わった。佐倉が“極楽鳥”と呼んだオレンジ色ではなく、紫色に変えたのだ。
あの日―――久保田を思いながら抱かれた日の翌週、多恵子が紫色のメッシュの入った頭で現れると、シンジは一瞬驚いた目をし、続いて、なんともいえない嬉しそうな笑顔を見せた。紫は、シンジが一番好きな色だから。勿論、多恵子もそれを知っていた。
「早めに着いちゃったけど…ま、いっか。昼寝でもして待てば」
腕時計に目を落としながら、佐倉がぶつぶつと呟く。多恵子も昼寝は歓迎だ。昨日の夜は、カルテットの仲間に久保田を加えて、みんなで閉店後も飲んでいたのだ。午前3時ごろお開きにはなったが、まだアルコールが体に残っていて、だるい。
「写真部の部室って広い?」
「狭い。基本的に、機材置くための物置にすぎないね、あれは―――けど、そういうのって、眠るにはもってこいじゃない?」
涼しげな切れ長の目をウインクさせる佐倉に、多恵子も同意の笑みを返す。
約束の時間より15分以上早いが、2人は、写真部の部室のドアを開けた。
直後。
その場に固まった。
「―――…」
…初めて見たかもしれない。
男の方が、女に襲われてるシーンって。
多恵子と佐倉は、どんなに善意的に解釈しても、大の男を部室の床に押し倒してるようにしか見えない女を、複雑な表情で見下ろした。
女の方に、2人は見覚えがあった。何故ならその女は、去年の大学祭で準ミスを取った人物だったからだ。
そして、明らかに押し倒されている状態の男の方に目を移した瞬間、多恵子は大声を上げそうになった。
―――あ…あいつじゃんっっ!!!
多恵子の自殺を止めなかった男。多恵子の喉を掻き切る真似をして、恐怖に硬直した多恵子を「半端なヤツ」と冷笑した男―――多恵子が、初めて見つけた、“多恵子と同じ世界”に住む人間。
あの時がそうだったように、今目の前にいる彼は、常識的に考えれば他人に目撃されたらまずい場面だというのに、多恵子と佐倉の登場に全く動揺していなかった。冷めた表情で2人の方を見ている。彼を組み敷くようにしている女の、氷の棒でも飲み込んだみたいな表情とは、あまりにも対照的だ。
「―――お邪魔だった?」
約30秒後、佐倉が、妙に冷めた声で女にそう訊ねた。が、女は、驚愕のあまり、声が出ない。…そりゃそうだろう。部室で1年生を押し倒してる場面を目撃されたのでは。
「…タイムオーバー」
答えない彼女の代わりに、仰向けに寝転んだ彼が、そう宣告した。その言葉に反応して、女が彼の方に顔を向ける。
「残念だったな。契約終了。早く降りな」
「…ちょ…っ、ちょっと、成田君っ」
「それとも」
ぐい、と彼女の肩を押しやると、彼は軽々と起き上がった。驚く彼女を至近距離から見据え、不敵に笑う。
「ギャラリーの前で一戦としゃれ込む気? 俺はそういう趣味ねーけど」
「……!」
顔を赤らめ、慌てたように立ち上がった彼女は、一瞬だけ多恵子と佐倉の顔を見た。が、その冷やかな視線に耐えられなかったのか、口止めすることもなく、2人の横を逃げるようにすり抜けて行ってしまった。もっとも、口止めされるまでもなく、こんな事を吹聴して回る気など、多恵子にも佐倉にもないが。
呆れる対象がいなくなると、自然、2人の目は、面倒そうに前髪を掻き上げ、憮然とした態度で床に座り込んでいる彼に向けられた。
「入学早々、えらい目にあったもんだね」
多恵子が言うと、彼は目を上げ、涼しい顔で言ってのけた。
「別に。慣れてるし」
「へーえ。慣れてんの。やっぱ準ミスになる位の美人だから誘いに乗った訳?」
「まさか。あんまりしつこく迫るから、男襲ってるとこでも目撃されりゃ、少しは懲りると思っただけ。…部室なら、部長が集合時間10分前には必ず来るの、知ってたから」
「……え?」
「あと5分後なら、もっと凄い状態目撃させられたのに―――計算外。あんた達、来るの早すぎ」
「……」
―――“悪魔”。
その2文字が、多恵子と佐倉の頭に、同時に浮かんだ。
成田瑞樹。
それが、その悪魔の名前だった。
***
開店準備中の久保田が、モップの柄に額をくっつけるようにして大きな溜め息をつくのを見て、ピアノを磨いていた多恵子は眉をひそめた。
「どしたの、隼雄」
「んあ? いや…ちょっとな」
「ジャズ同好会が存続の危機になってんのが、そんなに心配?」
久保田が1年の時に立ち上げたジャズ同好会は、初年度は大学側に同好会として認めてもらえる最低人数5人を確保できたが、4年生が卒業した今、メンバーは久保田と多恵子の2人だけである。つまり、残り3人ともが4年生だった訳だ。
「いや。その話じゃない。同好会はいいんだ。多恵子が佐倉引っ張ってきてくれたし、俺も2、3人貸しを作ってる奴を引っ張り込むから」
「じゃ、何さ。愛しのすみれちゃんと喧嘩でもした?」
茶化すように多恵子が言うと、久保田の眉がピクリと動いた。完全に冗談のつもりだった多恵子は、その反応に、思わず焦る。
「…え。まさか、マジ?」
「―――というより、別れた」
「は!?」
多恵子自身、驚いてしまうほどの声が、頭のてっぺんから出てしまう。あの執念深いすみれが、久保田と別れたなど、簡単に信じられる訳がない。
「なっ、なんで!? 隼雄、他に女でも出来た!? それとも、すみれちゃんが隼雄を怒らせるような真似したとか!?」
「…ああ、もうっ。俺、女って全然わかんねぇよ」
久保田は、モップを捨てて、不貞腐れたようにカウンターに寄りかかった。常に、年齢より落ち着いたムードを醸しだす彼だが、今ここにいるのは、恋愛に不慣れな19歳の学生にすぎなかった。
「付き合ってくれなきゃ死ぬ、みたいな勢いで告白してきて、付き合ってからも振り回す振り回す―――ちょっと俺もうんざりしてはいたけど、見捨てたら何しでかすかわからないと思って、妥協して付き合ってきたのに―――信じらんねーよ。“ごめん、久保田君。私、どーしても成田君がいいの”って、いきなりの破局宣言だぜ?」
ギクリとする。“成田君”―――ありふれた苗字だが、多恵子は直感した。あいつだ、と。
ゴールデンウィークも明けた今、成田瑞樹は、「告白してくる女を片っ端から振りまくる奴」として、密かに知れ渡っている。あまりしつこく迫ると、手酷い制裁が待ってるらしい、という噂もあった。誰がそんな噂を流したのか―――多恵子でも、佐倉でもない。となると、1人しかいない。手酷い制裁を食らった張本人だ。
「…成田、って、英語科で、写真部の、あの成田?」
「あの成田」
「―――無理だね。すみれちゃんじゃ」
女性免疫ほぼゼロの久保田とあの成田瑞樹では、裏山にハイキングとエベレスト登頂くらいの差がある。準ミスがズタボロにやられたのだから、すみれレベルでは、遭難して終わりだろう。
「無理だろうがなんだろうが、俺にはもう関係ないさ。…未練も後悔もないしな」
憮然とした表情の久保田は、そう言って、八つ当たりしてしまったモップを大人しく拾い上げた。
「…隼雄はそれでも、一応、すみれちゃんのことは好きだったんだよね?」
「始めはな」
「どこが良かった訳?」
「…なんだろうな」
久保田は、気合の入らないモップかけを再開しながら、ぼんやりと店のフローリングを見つめていたが、やがて、呟くように答えた。
「―――俺は、誰にも執着したことないから、しつこい位に俺に全力でぶつかってくる、仁藤のあのエネルギーに惹かれたのかもな」
「…ふーん」
―――執着。
それに関しては、私は、すみれにも誰にも負けない。
けれど、それを言うつもりはない。
久保田隼雄は、触れてはいけない人―――多恵子は目を逸らすと、ピアノの鍵盤を再び磨き始めた。
***
三度目の対面は、あまりにも意外な形だった。
「…俺、ジャズなんて、全然聴かねーんだけど…」
「いいからいいから。名前さえ入れといてくれりゃ、それで」
ジャズ同好会の入部届を、嬉々として学食のテーブルに広げる久保田。その向かい側の席で、気が進まなそうにしている彼を見つけ、多恵子はポカンとしてしまった。
久保田とすみれが別れて、まだ1ヶ月。当のすみれは、やはりエベレスト登頂は無理だったらしく、多恵子的解釈でいくと「ほどよい高さの黒姫登山」といった感じの男と付き合いだしている。それを知った久保田が、案外何の感情の動きも見せなかったのを見て、むしろ多恵子の方が複雑な気分になった。
そして今。
自分達が別れる原因となった男に、久保田はニコニコと笑顔で話しかけている。
「…多恵子」
「なに」
「顔、怖い」
オムライスを頬張る佐倉が、チラリと目を上げて、そう指摘した。事実、少し離れた所に座る2人を見る多恵子の目は、不機嫌な時のそれだった。
「…佐倉さ。どう思う? あれ」
「あれって、久保田君と成田のこと? いいんじゃない。あの2人、心理学の教授の研究室でよく顔あわせてたみたいだから、その関係で仲良くなったんでしょ、きっと」
「―――隼雄って、あんまりすみれちゃんのこと、好きじゃなかったのかな…」
「え?」
「…なんでもない」
やっぱり、複雑な気分だ。
久保田とすみれが別れて、以前のようにキャンパス内でも久保田と普通に会話できるようになったのは嬉しいけれど。あんな女、隼雄には似合わない――― 一番そう思っていたのは、他ならぬ自分だけれど。
でも、何の執着心も見せず、別れた原因となった男と親しくなってしまう久保田を見ていると、割り切れないものを感じる。
あれほど苦しい思いをしたのは、何だったのか、と。
すみれの笑顔に苛立ち、久保田に執着する自分に苛立ち、シンジにあんな酷い依頼までして、本来の自分のペースを取り戻そうと必死になった自分は、一体何だったのか、と。
所詮、あいつにとって、恋愛なんてその程度のものなのかもしれない―――深刻に考えた自分が馬鹿だったんだ。
そう考えざるを得ない。多恵子は、苛立ちを覚えながら、冷めてしまった定食の味噌汁をすすった。
***
「もー、ムカつくーっ! 聞いてよ、馬鹿すみれの話っ」
「聞く聞く。聞くから、そのスケッチブック、脇にどけてっ。まだ乾いてないんだって」
地べたに座って、足をバタつかせる多恵子の足元に、ちょうど描きかけの水彩画があったのだ。シンジは、多恵子の足をなんとか手で押さえて、スケッチブックを救出した。
「…シンジは、僕と絵とどっちが大切なんだよ。え?」
「そんな比較にならないものを並べられてもさぁ…」
「それは暗に“絵の方が大事”だって言ってるんだ」
「というか、多恵子、飲んでる? テンションが変だよ?」
「それは馬鹿すみれのせいっ!」
話が出だしに戻ったらしい。シンジは、客待ちの「にがおえ」札をパタン、と倒して、聞かせていただきます、という風に多恵子の方を見た。
多恵子いわく―――…。
「あら、久しぶり」
中庭で、久保田と多恵子、それに久保田の友達という3人で話をしている所に、たまたま、彼氏連れのすみれが通りかかったのが、そもそもの不幸。
あからさまに眉を顰める多恵子と、のほほんと穏やかに見返す久保田、最近親しくなったので事情をさっぱり理解していない久保田の友人、という三者三様で、冷笑をたたえたすみれを見た。一番顔が引きつっていたのは、すみれの現在の彼氏だ。
「おう、講義以外では久しぶり」
「元気そうじゃない。お友達と何の相談?」
「別に相談じゃないよ。ただの雑談」
「そう。飯島さんと一緒に、私の悪口でも言ってるのかと思った」
「ハハッ、隼雄に悪口言われるような覚えがあるんだ」
多恵子がそう茶々を入れると、すみれの顔が一瞬、鬼の形相になった。その顔、今腕組んでる隣の男に見せろよ、と思った多恵子だったが、久保田に軽く小突かれたので、やめておいた。
「久保田君、新しい彼女とか作らないの?」
優位を取り戻そうとするように、すみれが笑顔で小首を傾げてみせる。が、久保田は穏やかな表情を一切崩さずに、
「あー。別に、彼女いなくても不満はないし」
とあっさり答えた。取りようによっては嫌味にも聞こえるが、久保田の場合、これが本音。それがわかっているだけに、すみれの表情がまた微妙に強張った。
「今はそれより―――あっ! 悪い、また今度な!」
突然、そう断りを入れた久保田は、勢い良くベンチから腰を上げ、すみれと彼氏を半ばどかすようにしながら、早足で歩き去った。何事かと、すみれは勿論、多恵子たちも目を丸くする。
「おおーい、瑞樹!」
すみれの顔が、更に強張った。
久保田は、たまたま回廊を通りかかった成田瑞樹に、立ち止まれ、という風に手を振って合図していた。誰もが“成田”と呼ぶ中、久保田は彼を“瑞樹”と呼ぶ。多恵子も真似して呼んだら、後頭部を思いっきりはたかれた。どうやら、呼ぶことが許された人間しか“瑞樹”と呼んではいけないらしい。
つまりそれは、久保田も、そして“瑞樹”も、結構お互い気に入ってるという証拠。
呼び止められた瑞樹は、素直に立ち止まり、ゆらりと頭を傾けた。前髪が目にかかったのが邪魔だったのか、ちょっと荒っぽい仕草で掻き上げる―――その一連の動作が、彼独特の間合いを持っていて、多恵子ですら、ちょっと見入ってしまう。
チラリ、とすみれの様子を窺うと、すみれは、未練たらたらといった表情で、何かを話し込む久保田と瑞樹を見つめていた。
「…ふーん。噂は本当だったのね」
すみれが、皮肉っぽく口元を歪めて笑い、そう呟いた。
「うわさ?」
「久保田君よ」
眉間に皺を寄せる多恵子の方を向き、すみれは、精一杯強気な笑みを見せて、言い放った。
「最近の久保田君は、悪魔と疫病神を飼ってるって。…良かったわね、飯島さん。お仲間が増えて」
「…あっのオンナ、ムカつくーっ!」
怒りが再沸騰した多恵子は、シンジが倒した「にがおえ」の札を、立てたり倒したり立てたり倒したり、とイライラしたように繰り返している。思わず、多恵子の顔よりその手元を見てしまうシンジに、多恵子は唇を尖らせた。
「シンジぃ。話を聞く時はちゃんと目を見て、って、おかーさんから言われてないの?」
「あー、言われた記憶、ないなぁ。…で、多恵子は、その話のどこにムカついてる訳?」
目を上げたシンジが、苦笑しながら訊ねる。
「“疫病神”に決まってるじゃんっ! 僕のどこが疫病神だって言うのさ、あのバカ女!」
「うーん。…多分、それじゃない?」
シンジはそう言って、多恵子の手首をトントン、と人差し指で示した。
「3回も病院に駆けつけてるじゃない、彼。多分さ、周りからは、多恵子が隼雄を振り回してるように見えるんだと思うよ、オレ」
―――事実は、逆だけど。
その言葉を、多恵子も、シンジも、同時に飲み込んだ。
「…やめればいいのに」
ポツン、と、シンジが呟く。その視線は、やっぱり、数本の傷跡が走る細い手首に向けられていた。直前まで唇を尖らせていた多恵子は、その言葉に、薄く微笑んだ。
「―――シンジは、振り回されてるよね、僕に」
「そうかも」
「じゃ、僕はシンジの疫病神?」
「あはは、どうかな」
肩を揺らして笑ったシンジは、多恵子の紫色の髪を指で摘み上げた。どちらかというと色素の薄いシンジの瞳が、多恵子の目をじっと見つめる。
「でもオレ、多恵子に振り回されるの、好きだからさ」
「…そうなんだ?」
「多恵子見てると、絵、描きたくなる。多恵子はオレのイマジネーションの源だから、どんどん振り回して?」
「―――ふーん。じゃ、振り回しちゃおっと」
ニッ、と笑った多恵子は、カットして短くなったシンジの髪に指を通し、その頭をぐっと引き寄せた。そして、慣れ親しんだ唇に、自らのそれを重ねた。
攻める。翻弄するように舌を絡め、彼が陥落するまで攻め立てる。そんなに時間はかからなかった。すぐにシンジの手が、多恵子の肩を引き寄せた。
「―――…ギヴアップ?」
唇を離しつつも、ほとんど触れる位の距離で、多恵子が笑う。シンジも、それに応えて笑った。
「…参った。降参。もう限界」
「限界、ねぇ。じゃ、このまま、ここで?」
「うーん…そういう趣味はないなぁ。公然わいせつ罪で捕まるのはイヤだし」
「じゃ、シンジのとこ、連れてってよ」
「他の2人がいないの確認してからね」
「いても、僕は構わないよー? 見せつけてやりゃいーじゃん」
クスクス笑いながら多恵子が言うと、シンジは眉を顰めて「それだけは勘弁して」と言った。間近で見るその表情が可笑しくて、多恵子は余計笑った。
一生、届かない憧れ――― 一番、愛してる人。そういう人が、他にいるのだけれど。
振りまわされながらも、ふわりとそれを受け止め、穏やかに流れに乗っていく。そんなシンジの柔らかさが、多恵子はたまらなく好きだった。
シンジは、別格―――だから、あの日以来多恵子は、シンジ以外とは絶対寝ないと決めている。
絶対に触れないと誓った人。この人としか触れ合わないと誓った人―――多恵子の中には、その2つが、鈍い痛みを伴いながらも、矛盾せずに共存していた。
***
鉄製の扉を押し開くと、そこには既に先客がいた。
「…成田」
瑞樹だった。
彼は、デイパックを枕にして、愛用しているカメラを抱きしめるようにして眠っていた。立てた膝の上にもう一方の脚を乗せ、まるで空を仰ぎ見てるみたいにして。
多恵子は、彼を起こさないようにそっと扉を閉め、足音を忍ばせて近づいて、彼の傍らに腰を下ろした。ラッキーストライクを取り出し、火をつける。ライターの蓋を閉める時、カシャンという音がしたが、瑞樹は目を覚まさなかった。
煙を吐き出し、視線を空に移す。まだ梅雨の最中だが、今日の空は夏を思わせる、鮮やかな青だ。
また、夏が、近づいてくる。
夏は、「そら」が近くなる。世界がギラギラした極彩色に埋め尽くされるにつれ、多恵子の感覚は鈍くなり、全てのものに実感が伴わなくなる。
あと1週間で、誕生日。
―――いらないのに。誕生日なんて。
溜め息をつきかけた時、傍らに寝転がる人影が、僅かに身じろぎした。
目を覚ましたのかと思ったが、違ったようだ。多恵子は、煙草の灰を落とし、先ほどと微妙に異なる姿勢で眠っている瑞樹を見下ろした。
―――こうして眠ってると、こいつも普通の18歳なんだけどなぁ…。
煙草を持った手で、膝の上に頬杖をつき、多恵子はクスリと笑った。
日頃の瑞樹は、独特の仕草と、野良犬を思わせるどこか寂しげでありながら艶のある瞳で、次々女を惹きつける。惹きつけて、突き放す。しつこく食い下がると、手酷い方法を使ってでも追い払う―――だから“悪魔”と呼ばれてしまう。
でも、本人には、自覚がない。惹きつけている自覚が。
放っておいて欲しいのに構いたがるから、拒否してるだけ。何故相手がそう構いたがるのかを、彼は全く理解していない。だからこそ、その拒否の仕方は、過激なのだ。まだ自覚してやっているのなら改心のさせようもあるだろう。そうではない分、質が悪い。
悪意もなく、惹きつける。受け入れられない人間を。―――だからこそ、生まれついての、本物の“悪魔”なのかもしれない。
―――この悪魔に魅せられちゃってるんだよなぁ、隼雄は。
瑞樹を見下ろす多恵子の表情が、複雑なものになる。
久保田は、誰からも慕われる。が、自分から誰かを慕ったりする事は、ほとんどない。あぶれてしまっている子に声をかける事はあっても、彼の方から誰かと積極的に親しくなろうとした事はない。あのすみれだって、必死のアタックが実っただけに過ぎない。アタックされなければ、2人は付き合う事なく卒業まで過ごしたに違いない。多恵子だって、ある意味、アタックが実って友達になったようなものだ。
けれど、成田瑞樹だけは、違う。見ていて、わかる。瑞樹が久保田を慕っているのではなく、久保田の方が瑞樹に魅せられているのだ、と。
瑞樹は、誰に対しても無関心だ。まるで風みたいに、誰の前もスルリとすり抜ける。その、すり抜ける瑞樹を、なんとか掴まえようと努力しているのは、久保田の方なのだ。
久保田は一体、この悪魔の何に魅せられてしまっているのだろう。
同じ世界の人間―――そう感じ、その正体を見極めたいと思った多恵子だったが、今はそれに加えて、その疑問が頭を占めている。この男が、久保田を惹きつけてはなさない理由。それを、見極めたい。
自分には、出来ないから。久保田の目を、そこまで釘付けにすることが。
―――なんだか、面白くない気分。
軽い、嫉妬心かもしれない。多恵子は、コノヤロウ、という気分で、瑞樹の頬を人差し指でつついた。
眠っている瑞樹の眉が、顰められる。
―――あ。
これは、ちょっと、面白い。
反応があったのに気を良くした多恵子は、もう一度、同じ事をしてみた。でも、今度は反応がない。
もう一、二度試したが、やっぱり反応がない。多恵子は、頬をつついた人差し指を、つつつ、っと滑らせてみた。第二ボタンまで開けられたシャツから覗く、その首筋にまで。
途端。
「―――…っ!!」
ガバッ! と、凄い勢いで、瑞樹が飛び起きた。
あまりに激しい反応に、多恵子も驚いて身を反らした。が―――起き上がった勢い以上に驚かされたのは、瑞樹の、その表情だった。
弾かれたように起き上がった瑞樹は、息をしていなかった。
呼吸を止め、シャツの襟元を片手でぎゅっと掻き合わせ、まるで幽霊でも目撃したみたいに、大きく目を見開いていた。気のせいだろうか。手も、微かに震えている気がする。
そこに、いつもの悪魔は、欠片もいなかった。
「な…成田?」
瑞樹の目が、声に反応して、多恵子の方に向けられる。冷や汗なのか、ずっと日向で寝ていたせいなのか、そのこめかみから、汗が一筋流れ落ちた。
「―――なに…した」
掠れた声で、そう問う。その声も、やはりいつもの瑞樹らしくない。
「…いや…全然起きないから、指でつついてみただけ…」
「……」
瑞樹は、まだ少しの間息をつめたままでいたが、やがて大きく息を吐き出し、襟元を押さえていた手で髪を乱暴に掻き上げた。
「―――二度と、やるな」
怒りを抑えつけたような、押し殺したような声に、背筋が一瞬、寒くなる。いつも、人を馬鹿にしたような冷たい態度ばかり取る瑞樹だが、こんな、本物の怒りを感じさせる声は、今まで聞いた事がない。
「…無防備に寝てる奴が、悪いんじゃないの」
ひるんでしまった事を悟られないよう、わざと反抗的な態度を多恵子は取った。
「なに、僕が襲うとでも思った? 下級生を? それとも、首でも絞められるとでも思った? 襲われたくなきゃ、こんな所でぼーっと幸せそうに寝なければいい」
そう言い終わるか終わらないかの刹那。
瑞樹の手が、多恵子の首を掴んだ。
「―――!」
押されて、後ろに倒れる。コンクリートの地面に後頭部を打ち付けるには至らなかったが、頭をかばった分、背中と肩が痛かった。思わず痛みに顔を歪めた多恵子だったが、首を押さえつける瑞樹の手の力に気づき、恐怖に身じろいだ。
「―――死にたいんだろ?」
片手1本で多恵子の喉元を押さえつける瑞樹の声は、全身が凍りつく位、静かで、冷たかった。
視界に、瑞樹の顔が覗く。多恵子を見下ろす瑞樹は、微笑さえ浮かべていた。出会った時、多恵子に剃刀を突きつけた瑞樹の笑みとも、しつこく迫る女を罠に嵌めた時の笑いとも、その笑みは異なっていた。
―――本気で、怒らせた。
能面のようなその微笑に、多恵子はそう察した。
「な…っ、成田っ」
「なんだよ」
「…嫌だ…っ、苦し…」
「死にたいんじゃねーのかよ。それともあれは狂言かよ。え?」
「ち―――違うっ…!」
「笑わせんな」
吐き捨てるようにそう言うと、瑞樹は、多恵子の首から手を離した。
突然、圧迫感から解放される。多恵子は、喘ぐような呼吸を必死に繰り返した。さほど喉が絞まっていた訳ではないが、恐怖心で、呼吸が乱れていたのだ。
なんとか呼吸が整ってきた多恵子は、ノロノロと体を起こした。が、そこに、いる筈の瑞樹がいない事に気づき、慌てて周囲を見回した。
瑞樹は、ちょうど鉄製の扉を開けようとしているところだった。
「―――成田!」
微かに痛みを訴える喉を必死に絞り、声を上げる。瑞樹は、その声に一応反応して、振り向いてくれた。
その目は、見たこともない程、暗く沈んでいる。多恵子の背中が、またゾクリと寒くなる。謝罪の言葉を口にしようとしていたのに、その言葉が喉に詰まった。
―――やっぱり、感じる。
この人も、同じ世界の人間だ。
この人も、生と死の狭間を、漂うようにして生きてる。自殺志願者じゃないにしても、どこかに死を抱えてる。
死に、とても近い所の、人。
「…成田は、死のうって思うこと、ないの?」
思わず訊くと、瑞樹はふっと笑った。
「もう、中身は死んでる」
「……」
「でも、あんたみたいに体まで殺す気はない。…死んだまま、生きてく」
…死んだまま、生きてく―――。
「…できるの?」
―――そんな、辛いことが。
瑞樹は、その問いには何も答えず、ただニヤリ、と不敵に笑っただけだった。その笑いに、さっき感じた寒気とは違う、ゾクリとしたものを感じた。
―――魅せられる。
中身が死ぬほどの“何か”を抱えつつも、流されもせず、逃げもせず、しなやかに生き続ける姿に。
彼は、多恵子と同じ「そら」を知る人間。
けれど、
悔しいけれど、認めるしかない。
あれは、なりたくてもなれなかった、「理想の自分」だ。
その日から。
成田瑞樹は多恵子にとって、最も嫌いで、かつ、最も憧れる存在になった。―――久保田隼雄とは、また違った意味で。
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