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13 : 約束のKiss

 寒さを感じて、多恵子は身震いとともに、目を覚ました。
 暗闇の中、手探りで寝間着代わりにしているTシャツを探す。頭からそれをすっぽり被ると、かえって寒さを実感して、小さなくしゃみを一つした。
 眠っているシンジを起こさないようベッドをそっと抜け出すと、キッチンへ向かう。シンクのところの灯りだけをつけると、ワンルーム全体がぼんやりと明るく照らされた。コップに水を注ぎ、一気にそれを飲み干した多恵子は、気だるい頭を回し、背後にあるテーブルを返り見た。
 パーティーの残骸がそのまま残るテーブル。その片隅に―――あの絵が、置いてあった。
 全体は、濃いブルーで彩られている。その微妙な濃淡と、幻想的なグラデーションで描かれたいくつかの海の生物で、そこが深海であることがわかる。
 その、底に。緑がかった青で描かれた大きな岩に身を寄せるようにして、少年が丸くなって横たわっていた。
 水の流れのせいか、髪は重力に逆らって流れている。目の色は、伏せられているので分からない。けれど、僅かに綻んでいるように見える口元は、まだどこかに幼さが残っているように見える。15、6歳といったところ―――そう、初めて多恵子が会った時の、陸くらいの年齢かもしれない。
 顔立ちは、フワリとした描画のため分かり難いが、陸とは全く違う顔だ。けれど、多恵子にはそれが陸にしか見えなかった。今も広い海のどこかで眠っている、陸の魂の姿に。

 コトン、と音がして、多恵子は目を上げた。見れば、いつの間にかシンジが起き出していて、さっきの多恵子そっくりに、Tシャツを頭から被っているところだった。
 「また見てるんだ、その絵」
 多恵子がこちらを見ているのに気づいたシンジが、そう言ってクスリと笑った。その表情は、いつも以上に穏やかに見える。多恵子も、その穏やかさにつられるように、微かに笑みを浮かべた。
 「―――ねぇ、シンジ。1つ訊いていいかな」
 「ん? なに?」
 絵を抱いたままベッドサイドに戻り、空いている空間に腰を下ろした多恵子は、改めて絵を膝の上に乗せて眺めた。
 「シンジはさ、寝言で“陸”の名前と“そら”って言葉を聞いて、この絵を描いたんだよね」
 「うん」
 「“そら”なのに―――なんで海を描いたの? 普通は空を描かない?」
 シンジは、陸のことは何も知らなかった筈だ。さっき、感極まって全てをシンジに吐露してしまうまで―――6年あまりの年月、誰にも話したことがない秘密だったのだから。
 「うん…実はさ、最初は、空を描いてたんだよ」
 シンジは照れたような笑みを見せて、ベッドの上で膝を抱えた。
 「8月の終わり頃には、それでほぼ出来上がってたんだ。けど…なんか、完成が近づくにつれて、どんどん違和感を覚えちゃってさ。何がおかしいんだろう、何が違うんだろう、って、毎日キャンバスの前で首捻ってた。で―――ふと思い出して、ああ、なんだそうか、って気づいたんだ。陸が今いる所は、多恵子がもうオレに教えてくれてたんだ、って」
 「え……?」
 シンジの言葉に、多恵子は眉をひそめた。するとシンジは、すっと手を挙げ、壁を指差した。
 シンジの指差す方向を振り返った多恵子は、そこに、自分でも気づかなかったヒントを見つけ、愕然とした。
 壁にかけられていたのは、今年の春頃、シンジに描いてもらった絵―――熱帯魚と回遊魚、大型の魚や深海魚…そんなものが息づいている、海の底の絵だった。
 今飾っているのはこの1点だけだが、確かに多恵子は、今年の春から夏にかけて、シンジによく海関係の絵を描いて欲しいとねだっていた。でも―――それはただ単に、久保田やシンジたちを海の世界に置き換えると、何故かとても納得がいっただけで、深い意味などなかった。
 いや。
 深い意味はないと、思っていた。
 「…ハハ…」
 気の抜けたような、呆れたような笑いが、溜め息とともに漏れる。やはり“海”は、多恵子の潜在意識のどこかに、畏怖と懐かしさを伴いながら巣食っていたらしい。指摘されるまで気づかないなんて、笑うしかなかった。
 「―――とにかくさ」
 シンジは、肩越しに手を伸ばして、多恵子の膝の上にある絵を取り上げると、それを傍らに置いた。背後から、多恵子の体に手を回す。20歳を過ぎてもやっぱり小柄な体は、すっぽりとシンジの腕の中に収まってしまった。
 「陸は、あそこにいるから。…もう、夢ん中で探さなくていいよ」
 陸は、あそこに居る。
 夏中かけて、体に刻み込んだこと。海に行くたびに、自分を納得させていったこと。それを、ちゃんとこの絵で実感できる。
 「…うん。ありがと」
 多恵子は、少し安心したような笑みを見せて、シンジの腕に頭を預けた。
 そんな多恵子を、シンジは穏やかな笑顔で見ていた。が―――何故かその顔は、次第に翳りを見せ始めた。
 何かを逡巡しているように、視線が、背後から辛うじて見える多恵子の横顔の上を彷徨う。やがて、小さく息をついたシンジは、意を決したように視線を定め、口を開いた。

 「…多恵子」
 「ん?」
 「ごめん。次の春が来たら―――オレ、もう多恵子に会えなくなる」
 ビクン、と、多恵子の体が、一瞬反応した。
 キョトンとしたように目を丸くして、多恵子は頭を起こし、シンジを振り返った。そこにあるシンジの表情は、到底冗談を言っているようには見えない。
 「―――え?」
 「高校時代の美術部の恩師が、来年の春で教師をやめて、地元の尾道に帰るらしいんだ。で…尾道で、ギャラリーと絵画教室を開くんだって。若手にもどんどんチャンスを与えたいし、教室も1人じゃ心もとないから―――まだ就職してないんなら一緒に来ないか、って。迷ったけど…行くことにした」
 そう言うシンジは、ちょっと辛そうに、眉を寄せていた。そんなシンジの目を見つめる多恵子の瞳は、内面の動揺をあからさまに表していた。

 ―――海に、泳ぎだすんだ。シンジも。
 大きな水槽の中で優雅に泳いでいたエンゼルフィッシュが、水槽の外へ―――本物の海へ泳ぎだすことを決意したのだ。
 唇が、震える。考えてもみなかった。自分の死以外の理由で、シンジと会えなくなる日が来るなんて。

 「オレ、多恵子が好きだから―――離れたくないから、多恵子が必要としてくれてる間は絶対傍にいようって思ってた。もっと、オレが強かったら…多恵子も尾道に行こう、って言ってた。向こうで一緒に暮らそうよ、って」
 寂しそうな笑みを口元に浮かべ、シンジは額を多恵子の肩に埋めた。
 「けど―――オレ、弱いから。多恵子を無理矢理繋ぎとめることも、笑顔で見送ることも、多分できない。隼雄や成田君のいないとこで多恵子の傍にいたら、オレも多恵子も、きっともたない」
 「シ…ンジ…」
 「ごめん…ほんとに、ごめん。最後まで、一緒にいてやれなくて」
 「―――バ…ッカ、な…なんで、シンジが謝んの…」
 当たり前のことなのに。
 シンジには何の義務もないのに。むしろ、久保田や陸のような存在が多恵子の中にいるのなら、シンジは怒って当然なのに。
 多恵子を突っぱねる権利も、多恵子を罵る権利も、シンジにはあるのに―――責めないで、謝るなんて。
 胸が、ギリギリと痛む。痛みで、気が変になりそうなほどに。
 多恵子は体を捩ると、シンジの頭を胸に抱きとめた。何度も抱きしめてもらった事はあったけれど、多恵子の方からこうするのは、これが初めてかもしれない。
 少し、驚いたのだろう。シンジは、暫くは何の反応も示してくれなかった。が、やがて、少し顔を上げて多恵子の肩に頬を寄せるようにして、背中に腕を回した。それに応えるように、多恵子も背中に手を回す。薄いTシャツ越しに、シンジの体温が感じられて、胸の痛みが少しだけ和らいだ。

 次の春が来たら―――…。
 シンジと別れてしまえば、確かに、この世に残した執着の1つから、解放されるかもしれない。
 でも…まだシンジには、何も返していない。愛してくれることに甘えて、傷つけて、辛い思いをさせただけだ。そのまま別れたら、解放でもなんでもない。ただの「逃げ」だ。

 「―――シンジ」
 「…うん」
 「最後の我儘、聞いてくれる?」
 「―――…何?」
 多恵子は、シンジの肩を掴んで体を離し、シンジの深い茶色をした目を真正面から覗き込んだ。
 「春まで―――ここで、一緒に暮らそ?」
 「……」
 「次の春まで―――シンジだけのために、生きさせて」

 次の、春まで―――自分の命を、シンジだけのために使おう。
 それができた時、自分は、自分が生き残った意味を、1つ、手に入れることができるかもしれない―――多恵子は、そう思った。

***

 学食で、慌しく荷物をまとめている多恵子を見つけて、久保田は声をかけた。
 「おーい、多恵子」
 菓子パンの残りを口につっこんだ多恵子は、頭だけ動かして久保田の方を見た。多恵子の向かいの席では、少々呆れ顔の佐倉が、頬杖をついて定番のオムライスをつついていた。
 「なに?」
 「卒業生追い出し会の話」
 「あー。あれね。隼雄、学校行事の8割以上は任されてんじゃないの」
 損な性分だよね、と多恵子は苦笑する。事実、久保田は、大学祭をはじめとする多くのイベントごとで、その企画運営に引っ張り出されていた。彼に任せれば、事がスムーズに運ぶ事を、先輩後輩関係なくみんな知っているからだ。
 「いっそのこと、イベント会社にでも就職したら」
 からかうように言う多恵子に、久保田は眉を顰めた。
 「…派手な仕事は嫌いだ。それより―――お前、何曲歌う予定にしてる? もち時間15分て言ったけど、多少余裕が出てきたんで、微調整中なんだよ」
 「あっそう。なら、4曲いかせてもらおうかな。タクさんや徹二さんにも相談しないとまずいけど」
 “タクさん”と“徹二さん”はカルテットのメンバーで、“タクさん”がピアノ、“徹二さん”がベースを担当している。2人ともプロとして活動しているので、会社員のドラムとサックスの2人より平日の都合がつきやすい。それで、「卒業生追い出し会」で、多恵子を含めた3名でジャズを披露することになったのだ。
 「隼雄、何が聴きたい? “サマー・タイム”と“デイ・バイ・デイ”は決まってるんだけど」
 「うー…、なら、“アズ・タイム・ゴーズ・バイ”」
 「おお、ロマンチストじゃん」
 「…どうせ似合わねーよ」
 気分を害したようにそう久保田が言うと、多恵子は可笑しそうにケラケラと笑い声をたてた。が、学食の壁にかかる時計を見て、慌てたように立ち上がった。
 「うわ、ヤバ。悪いけど隼雄、あとの時間配分は任せたよ。じゃね、佐倉。また明日ー」
 「はいはい、さっさと行きなさいよ、シンジ君のとこに」
 頬杖をついたまま、スプーンを振って見送る佐倉に、多恵子はちょっと舌を出してみせる。ポン、と久保田の腕を叩くと、ダッシュで学食から出て行った。
 冬休み明け以降、ずっとこの調子だ。大学が終わるとすぐに、多恵子は猛ダッシュで帰っていく。シンジがバイトしているコンビニで欠員が出たので、短期条件で多恵子が名乗りを上げたのだ。多恵子は、中身はどうあれ、表面的なお愛想ならお手のものだ。即座に採用された。
 「まぁったく…、あの多恵子が、1人の男にこうも入れ込むとは、予想外」
 まだ呆れた顔の佐倉は、溜め息混じりにそう呟いた。
 「2年以上付き合ってきて、今更同棲なんて、どういう風の吹き回しなんだか…。恋する乙女してる多恵子なんて、多恵子じゃないわよ」
 「不満そうだなぁ、佐倉は」
 苦笑いを浮かべて、久保田は佐倉の正面に腰を下ろした。
 「まるで、お気に入りのおもちゃを取り上げられて不貞腐れてる子供みたいだ、っつったら、怒るか?」
 「…嫌味な奴」
 「昼休み、あと20分も残ってるのになぁ。このひと時が佐倉の癒しの時間だってのに、そりゃまあ不機嫌にもなるよな」
 「うーるーさーい。どうせあたしなんて、多恵子のお気に入り度からしたらシンジ君よりも久保田君よりも下よ」
 「…ま、とりあえず、残り食っちまえば?」
 まだ半分以上残ったままのオムライスに、久保田が笑いを抑えてそう言った。珍しく、本音のままにいじけた態度を取ってしまった事を恥じているのか、佐倉はムッとした顔をしながらも、黙々とスプーンを口に運び始めた。

 佐倉とはこういう関係の方がいい―――不機嫌にオムライスを平らげていく佐倉を眺めながら、久保田はそう思った。
 多恵子を挟んでの両端にいる自分達。恋愛よりは友情で結ばれた関係の方が、余計な苛立ちを感じずに済む。例えば、佐倉のクールでドライすぎる考え方や、久保田の頑固なまでに信念を曲げないところ―――恋愛関係だと、似たもの同士なだけに、その微妙な食い違いに時として過剰な反応を示してしまうのが嫌だった。それから解放された分、今の付き合いは楽だ。
 そんな事を実感した今だからこそ。
 佐倉は、動揺せずにはいられないのだろう。多恵子の、この変化に。

 「―――何見てるのよ」
 さっき口にしてしまった“多恵子から見たお気に入り度”の話が、よほど気まずかったのだろう。佐倉はまだむくれた表情のまま、久保田を睨んでいた。
 「いや。別に」
 クスリと笑った久保田は、視線を逸らして、窓の外を眺めた。
 もしかしたら、佐倉はまだ知らないのかもしれない。シンジが、3月の終わりには、多恵子の元を去っていくのだということを。久保田にしたって、それを知ったのは1月の終わり近くだったのだから。
 限りある時間を、最大限、シンジのために使う―――そう言う多恵子は、それまでとは違う色で輝いている。死ぬ事しか望まなかった多恵子の変化に、久保田は素直に喜ぶことができた。
 ただ。
 シンジという居場所が消えたら、多恵子を地上に繋ぎとめるものが無くなってしまうんじゃないか。
 多恵子の世界は、3月で終わってるんじゃないだろうか―――それだけが、不安。
 4月から先の未来を、多恵子に実感させたい。そのためには、どうすればいいのだろう? …最近の久保田は、それをずっと、模索していた。

***

 ケーキに蝋燭を立て、火をともした多恵子は、テーブルの上のライトを落とした。
 「すげー…、壮観。23本も立ってると迫力」
 「一息で吹き消せるかな」
 「オレの肺活量じゃ無理かも」
 ちょっと首を傾げつつも、シンジは大きく息を吸い込むと、一気に蝋燭を吹き消した。全部消えた、と思ったが、端っこの1本だけが残ってしまった。
 「…ちぇ」
 「じゃ、この1本はいただき」
 ニッと笑った多恵子が、最後の1本を吹き消した。途端、部屋の中が、暗闇に包まれる。
 「―――ハッピー・バースディ。シンジ、23回目の誕生日、おめでとう」
 「…サンキュ」
 祝う声も、それに応える声も、どこか沈んで、弱々しい。暗闇の中、しばし沈黙が流れてしまった。
 皮肉な話だ。シンジの誕生日の翌日が、尾道へ引っ越す日というのも。
 「あ…、プレゼント、結局買ってないや」
 何がいいか何度訊ねても、シンジが何も思い浮かばないままだったので、結局今日まで買わずに来てしまったのだ。暗闇の中ポツリと呟く多恵子の声は、後悔してるような落ち込んだ色をしていた。
 「いいよ、別に。この3ヶ月が、オレにとってはプレゼントみたいなもんだったから」
 「でもさぁ…」
 「ホントにさ。いっぱい、頭ん中に仕舞ってあるから。多恵子と一緒に行ったとこ、全部」
 「全部?」
 「冬の海も、動物園も、東京タワーから見た夜景も、ディズニーランドのパレードもさ。…全部、頭に仕舞ってある。それでオレ、何枚でも絵が描けるよ、きっと。イマジネーションの源をもらったんだから、これ以上のプレゼントはないよ」
 それでも、多恵子の落ち込んだような気配は変わらない。湿っぽくなりそうな空気を追い払おうと、シンジは手を伸ばして、テーブル上のライトをつけた。
 白熱灯の灯りに照らされた部屋の中、多恵子は、まっすぐにシンジを見ていた。まさか、暗闇でも自分の顔をしっかり捉えているとは思わなくて、シンジは思わず目を丸くしてしまった。
 「…あ、ビックリした。多恵子、見えてたの?」
 「―――ううん、感じてただけ」
 ちょっと笑うと、多恵子は、ライトから下がった紐にかかっているシンジの手を引き寄せ、自らも立ち上がった。
 まだ目を丸くしているシンジを無視して、シャインリップに彩られた唇を重ねる。黒と紫のツートーンに染められた柔らかい前髪が、シンジの頬をくすぐった。
 「―――ケーキ、後にしない?」
 「…いいよ?」
 クスリと笑って答えたシンジは、多恵子に促されるままに、手を引かれてついていった。多恵子は、滅多に自分からキスはしない。するのは、“お気に入り”を見つけた時にする親愛のキスの時と、シンジを誘う時だけ―――そして、多恵子が自分から誘う時は、「心が暴れだしそうな位に、寂しい時」と決まっていた。
 「―――あ、そうだ。1つ、欲しいもん、あった」
 ベッドに腰掛けたところで、シンジは、突然そんな事を言った。隣に腰を下ろした多恵子は、首を傾げるように彼の顔を覗きこむ。
 「何?」
 「うん…、でも、今すぐ貰えるもんじゃないんだ」
 「何? なんでもあげるよ? 言ってみてよ」
 するとシンジは、ちょっといたずらっ子のような笑みを見せて、告げた。
 「多恵子の、大学の卒業証書」
 「―――…」
 思いがけないリクエストに、多恵子は数度、目を瞬いた。多恵子が卒業するまでには、あと1年ある。そんなものを望まれるとは、予想できなかった。
 「来年のオレの誕生日に、多恵子の卒業証書、尾道の下宿先に送ってきてよ。あ、キスマーク入りだったりすると、セクシーでいいなぁ…」
 「……バカ」
 キスマークの入った卒業証書を想像して、多恵子は思わず吹き出した。なんでそんなものが欲しいのか全然わからないが、シンジが欲しいと言ったのは、これが初めてのことだ。ノーと言うことは許されない気がした。
 「オッケー、いいよ。約束する」
 後ろに倒れこみながらシンジの腕を引き寄せた多恵子は、笑い声の合間に答えた。見下ろしてくるシンジの表情は確かに笑っていたが、目がどこか真剣みを帯びていた。
 「絶対?」
 「うん、絶対。シンジの最初で最後のリクエストじゃん。叶えなくてどーするって…」
 言葉を続けようとしたところを、一瞬のキスで塞がれた。不意打ちを食らって、多恵子はつい目を丸くしてしまった。
 「―――約束のキス」
 彼らしくなく、強気な笑みを口元に浮かべるのを見て、多恵子はまた笑ってしまった。
 「…シンジ…感化されちゃったんだね、僕に」
 「あはは、そうかも」
 笑い声とともに、頬に、額に、胸元に、くすぐったいようなキスが落とされた。多恵子も同じように、キスを返していった。

 シンジはいつも、優しかった。
 シンジ以外の男を知っているといっても、その数は大したものではないけれど。でも、その中でも、シンジの抱き方は一番優しかった。
 陸を死に陥れた、忌まわしい体。父からも疎んじられている、汚らわしい体。けれど…シンジに抱かれている時だけは、そんな自分が少しは綺麗になったように思えた。大切に扱われるから、自分が大切な存在のように思えて、嬉しかった。
 これから先―――もう誰とも寝る気はない。この体が記憶していくのは、シンジの手や唇がいい。

 「…シンジは、忘れた方がいいよ」
 ふいに、そんな言葉を呟いてしまった。
 その言葉に、多恵子の手のひらが触れている肩が、僅かに反応した気がした。
 シンジは、少し驚いたような目をして多恵子を見下ろしていたが、やがてフワリと微笑むと、ゆっくりと首を振った。
 「忘れない。忘れられない位に、ちゃんと自分の体に刻んできたから、ずっと」
 「でも―――…」
 それじゃあ、辛いんじゃないの?
 そう言おうとした唇を、指で制された。
 「手紙は、書かない。電話もしないよ。そういう約束だよね。だから、今日が最後。でも―――忘れない」
 「……」
 「忘れなければ―――忘れずに、ずっと会わずにいれば、信じられる。どこかにずっと、多恵子が生きてるって」

 その言葉を聞いて。
 多恵子は初めて、シンジが何故尾道へ行くのを決意したのか、その本当の理由を理解した。

 優しいだけが取り柄の、シンジ―――たとえ傍にいなくても、彼には、耐えられない。愛した人の死を、認めることが。

 「―――私も、シンジのこと、絶対忘れない」
 いつもの多恵子とは違う言葉と、いつもの多恵子とは違う、笑顔。
 それは、あの日、陸と共に海に沈んでしまった飯島多恵子の笑顔―――その笑顔で応えた多恵子の頬に、シンジの手のひらが押し当てられた。フワリと柔らかな笑顔は、多恵子の目の奥に、しっかりと焼きついた。
 「うん―――オレのこと、忘れないで。絶対に」


 それが、シンジと触れ合った、最後の夜。

 1人きりになった部屋は、春の柔らかい空気が流れ込んできても追いつかない位、寒かった。

***

 屋上に、久々にその姿を見つけた時、何故か多恵子は、今にも泣き出しそうになった。
 「―――成田…」
 冬の間、彼の姿は、屋上から消えていた。寒いから、お互い長居をしなかったからかもしれない。
 屋上以外でその姿を見つけても、声をかけることはできなかった。屋上だけが、瑞樹が多恵子と世界を共有してくれる場所―――なんだか、そんな気がして。
 多恵子の声に振り向いた瑞樹は、ちょうど煙草を吸い終えて、吸殻を灰皿に押し込んでいるところだった。傍らに愛用しているカメラが剥き出しで置かれているところを見ると、もしかしたらここで4月の青空でも撮っていたのかもしれない。
 「…あんまり見ないから、女に刺されたか、放校処分にでもなったと思ってた」
 動揺を隠すようにそう憎まれ口を叩く多恵子に、瑞樹は軽く眉を上げるだけで応えた。
 「―――シンジさん、尾道行ったって?」
 多恵子が腰を下ろすのを待って、瑞樹がそう口にする。どうやら久保田から話が行っているらしい。
 「行っちゃったよ。成田にもよろしく伝えてくれって言ってた」
 「1つ、クリアか」
 「…まだ、ちょっと、残ってる」
 瑞樹の言うクリアの意味がわかって、多恵子はゴロンと仰向けに転がりながら、小さな溜め息をついた。
 「シンジに、来年の誕生日プレゼントとして、大学の卒業証書をリクエストされちゃったからね。それが出来れば、クリア。3年後期の試験、結構危なかったもんなぁ…。4年生は、ちょっと真面目にやらないとまずいな」
 「―――なるほどね」
 横目で多恵子を見てふっと笑うと、瑞樹は意味深にそう言った。なんだか含みをもたせた声色に、多恵子は眉をひそめた。
 「何、なるほどね、って」
 「いや、別に」
 「何ってば。気になるんだよ、そういうの」
 その言葉を無視しようとする瑞樹にむっときた多恵子は、彼の傍に置かれていたカメラをおもむろに取り上げた。
 「あ!」
 「言わないんなら、これ、そこから下に落とすけど」
 命より大事にしていると噂されているカメラだけのことはある。カメラを手に多恵子が立ち上がると、日頃決して動揺を見せない瑞樹が、初めて顔色を変えた。
 「…てめぇ…いい根性してんな」
 「成田が口堅いの知ってるしね。強硬手段に出ないと、教えてくれないじゃん」
 ちっ、と舌打ちをすると、瑞樹は憮然とした表情で髪を掻き上げた。どうやら降参らしい。溜め息とともに、やっと重い口を開いた。
 「―――卒業証書の件、久保田さんが1枚かんでる」
 「……え?」
 何故そこで、いきなり久保田の名前が出るのだろう。多恵子は目を丸くして瑞樹を見下ろした。
 「2月の終わり頃、3人で飲みに行った時。シンジさんが、誕生日プレゼントに何リクエストしたらいいか、って久保田さんに相談してた」
 2月の終わり頃――― 一緒に暮らしてても、気づかなかった。シンジが久保田や瑞樹と飲みに行ったなんて。ただ、1回、佐倉の頼みで、雑誌撮影のエキストラのアルバイトをして、1日留守にしたことがある。あるとしたら、その時だろう。
 「…で、隼雄は、何て」
 「…特に何もないんなら、何ヶ月も先でないと手に入らない物にしてくれ、って」
 「……」
 「俺も、シンジさんも、その意味はすぐ理解したけど―――あんたは、気づいてなかったみたいだな」
 意味―――…?

 何ヶ月も先でないと、手に入らない物。
 どんなにプレゼントしたくても、今するのは無理な物。

 ―――それが手に入る時まで生きていないと、プレゼントできない物…。

 「―――そ…っ、か…」
 多恵子は、正しく理解した。その、意味を。
 久保田らしいやり方だ。彼のやり方は、いつもさりげない―――けれど、実はその裏で、ちゃんと計算されている。よく考えると強引な方法だ。
 多恵子は、シンジのお願いなら、断る訳にはいかない。久保田は、それがわかっているからこそ、自ら行動するのではなく、あえてシンジに頼んだのだ。
 シンジがいなくなった後の未来を、多恵子に生きさせるために。
 「―――隼雄のやつ…全然信用してないな、僕のこと」
 「…信用しろって方が無理じゃねぇの」
 ちょっと上の空になった多恵子の隙を突くように、瑞樹はその手から、人質にされていたカメラを奪い返した。けれど、さすがの多恵子も、それを阻止するだけの気力はなかった。
 思わず、呆れたような笑いがこみ上げる。
 いつもいつも―――久保田には、最後の最後でやられてしまう。こっちが敗北を認めざるを得ない形で、この世に連れ戻されてしまう。多恵子の性格をよく知っているからこそできる技―――けれど、彼は知らない。そういう久保田の存在自体が、どれほど多恵子を惹きつけているかを。
 こんな時に、また、うちのめされる。
 久保田隼雄という人間の存在感に。

 「―――まだまだ、繋がれてんな」
 さっさとカメラを仕舞った瑞樹は、立ち上がりながらそう言って、うな垂れ気味の多恵子の頭をポン、と叩くいた。
 「ま、頑張んな、飯島先輩」
 恨めしそうに睨む多恵子に、瑞樹はただ、皮肉っぽい笑みを返しただけだった。

 

 多恵子、大学生活最後の春。
 少なくとも、あと1年―――多恵子の未来は、シンジと久保田の手によって、地上に繋がれることになった。

 まあ、それも、悪くない―――そう思える自分が可笑しくて、多恵子は紫色の前髪を掻き上げ、クスリと笑った。

 

***

 

 滅多に塗ることのない赤いリップをしっかりと塗ると、多恵子はしばし、思案した。
 で、結局、自分の名前の下あたりに、その唇を押しつけた。
 「…おい、多恵子。何やってんだ、それ」
 学食で合流した久保田は、多恵子のその行動を見て、思わず笑顔を引きつらせた。無理もないだろう。貰ったばかりの卒業証書に、なんだか真剣な面持ちでキスをしているのだから。
 「んー? シンジがさ、キスマーク入りのがセクシーでいいって言ってたの、思い出したからさ」
 「は!?」
 得意げな笑みを浮かべた多恵子は、完成した「キスマーク入り卒業証書」を、呆れ顔の久保田と佐倉に見せた。筆で書かれた「飯島多恵子」という名前の下に、真っ赤な唇の跡が、くっきりと入っている。
 「…それ見たシンジ君がどういう顔するか、一度見てみたいね」
 冷めた口調でそう言う佐倉だったが、
 「ハハハ、きっとこのキスマークにキスすると思うよ」
 と多恵子が答えると、疲れ果てたように学食のテーブルに突っ伏した。
 「あ! 成田! 成田! これ見てよ、これっ!」
 卒業生追い出し会のために、休みの日だというのに登校を余儀なくされた瑞樹が歩いているのを見つけ、多恵子は卒業証書を振り回して合図を送った。迷惑、という顔を思い切りした瑞樹だったが、その場に久保田もいるのに気づき、諦めたように学食に入ってきた。
 「久保田さん、卒業おめでとう」
 多恵子を完全無視でそう言う瑞樹に、祝いの言葉を述べられた久保田は、複雑な表情で眉を寄せた。
 「…なぁ、瑞樹。一体いつになったら名前で呼んでくれんだ、お前は」
 「卒業したらって言っただろ、前に」
 「卒業したぞ? 今日」
 そう指摘され、瑞樹は軽く眉を上げた。が、呼ばれ方ひとつで一喜一憂している久保田を微笑ましいとでも思ったのか、ふいに表情を和らげ、言い直した。
 「隼雄、卒業おめでとう」
 「―――…」
 途端。
 久保田は、うろたえたように後退(あとずさ)り、学食の椅子に座り込んでしまった。その顔が、僅かに赤くなっている。
 「…久保田君。そっちの気があったの? 男に名前呼ばれてうろたえてるなんて、絶対ヘン」
 「ちっ、違うだろっ! そういう誤解受けるような冗談はよせっ!」
 とんでもない発言に、久保田は佐倉を睨んだ。
 「そういうんじゃねーよ…っ。ただ、3年かかって、やっと呼ばれた名前だからな。…ちょっと、感動しただけで」
 気に入っていた分だけ、他人行儀な呼ばれ方に寂しさを感じていたのだろう。まだ少しうろたえたような顔をしている久保田が可笑しくて、多恵子も思わず苦笑した。が、当の瑞樹は、何をそんなに感動しているのか理解できないらしく、変な奴、とでも言うように訝しげな顔で久保田を見下ろしていた。
 「それより、成田。これ見てよ」
 多恵子はそう言って、瑞樹に卒業証書を掲げて見せた。
 瑞樹が、1年前のシンジとの約束を覚えているか、ちょっと不安だった。が―――その後、瑞樹が浮かべた表情を見て、多恵子は彼がそれをしっかり覚えていたことを悟った。
 瑞樹は、キスマークの入った卒業証書を一瞥すると、ふっと笑ったのだった。
 「…おめでとう、飯島先輩」


 おめでとう、飯島先輩―――1つ、クリアできて。

 まだ、多恵子とは呼んでくれないけれど。その言葉で、十分だった。


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