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14 : Last affection

 額の留め金をきっちり留めた多恵子は、それを、海の絵の隣に吊り下げた。
 少し離れて、その絵を眺める。知らず知らずのうちに、多恵子の口元が、ふわりと綻んだ。

 シンジの誕生日に届くよう発送した、キスマーク入りの卒業証書。多恵子は、ただそれだけを送った。手紙もメッセージも添えずに。
 それから1ヵ月後、シンジから1枚の絵が届いた。シンジらしい、柔らかいタッチで描かれた、尾道の町並みの水彩画―――やはりそこにも、手紙やメッセージは添えられていなかった。ただ、スケッチの裏に、シンジがこれを描いたとおぼしき日付―――「94.04.11」と「Shinji」というサインが入れられていただけ。

 ―――シンジとの約束守るために、1年、ちゃんと生きてきたよ。
 多恵子の卒業証書が、無言で語ったように。
 ―――オレは、全然変わらずに、元気に絵を描き続けてるよ。
 淡い色合いの尾道の風景が、無言でそう語りかけていた。

 ふと時計を見ると、もうアルバイトに出かけないとまずい時間だった。
 多恵子は慌てて鞄を肩にかけると、そのまま部屋を出て行こうとした。が―――思い出したように振り返り、ベッドサイドに隠すように置いてあるキャンバスを手に取った。
 「―――行ってくるね、陸」
 シンジが描いた、陸の絵。その表面を、一度指で軽く撫でて、呟く。
 キャンバスを、また元通り伏せる形で仕舞いこむと、多恵子は今度こそ部屋を出て行った。


 多恵子、22歳の春。
 生きる筈ではなかった未来も、間もなく3年目に入ろうとしていた。

***

 卒業を機に、多恵子の周囲は様々に変化した。
 久保田は、コンピューターソフトを開発する会社に入社した。
 久保田にコンピューターは似合わない、と誰もが言ったが、彼は気にしない。セキュリティがどうのこうの、と、その業種がいかに時代にマッチしてるか、ということを切々と説いていたが、多恵子には全然わからなかった。ただ、彼が結局配属された「企画部」という部署は、彼にピッタリだと思った。
 佐倉は、かねてからの予定通り、モデルとしての仕事を更にグレードアップさせるべく、活動を始めた。タレント業的な誘いもあったらしいが、モデルという仕事に誇りを持つ彼女は、それらを全て断った。モデル1本で、これからも地道に仕事していくらしい。
 そして、当の多恵子は―――就職は、しなかった。
 なんだか、考えられなかった。自分が、どこかの企業の一員となって働く姿が。興味のある職業もないし、興味が無いのに仕事につく気もない。強いて言えば唯一興味があるのは「歌うこと」だが、歌だけ歌ってる人生なんて、変な感じとしか思えない。
 そんな訳で多恵子は、かつてのシンジ同様、フリーターという名の魚になって、世間の波間をヒラヒラと泳ぐ道を選択した。
 大学時代から続けていたジャズ・バーの仕事は、残念ながら辞める羽目になった。カルテットが、ちょうど多恵子が卒業論文で唸ってた頃、解散してしまったのだ。新しいメンバーと折り合いがつくとも思えず、多恵子も辞めてしまった。
 その代わり、ピアノの“タクさん”の紹介で、六本木にあるジャズ・バーの仕事が貰えた。週1回のステージだが、完全に歌から離れてしまうよりはマシだ。通いやすいという事もあって、今では六本木界隈のコンビニやファミレスのバイトをいくつか掛け持ちしている。結構、それなりに忙しい毎日だ。

 これでこのまま、久保田と関係が断ち切られてしまえば、それで終わったかもしれない。
 今の生活に飽きた時に、多恵子の人生が終わる。あとは未練も何もなく、さっさとおさらばできたかもしれない。
 ところが―――久保田はやっぱり、油断のならない男だった。


 「よっ、久しぶり」
 バイト先のファミレスで、オーダーを取りに窓際の席に向かった多恵子は、そこに久保田の姿を発見して、固まってしまった。
 「は―――隼雄!? あ、あんた、平日の昼間っから、何してる訳!?」
 「まるでサボってるような言い方だな」
 心外だ、という風に眉を顰めると、久保田は背もたれに深く背中を預け、腕組みをした。
 「外回りの仕事で、六本木の近所まで来たんだよ。で、昼飯の時間になったんで、ちょうどいいから多恵子が働いてる姿を拝もうと思ってな」
 濃紺のスーツ姿の久保田は、卒業からまだ1ヶ月ほどだというのに、なんだか引き締まって精悍になった感じがした。けれど、その笑い方は以前通りで、性格の真っ直ぐさを表すように、明るくて、余裕あり気だ。
 「な、注文取るんだろ? やってみせろよ、接客スマイル。お前でも語尾上げて注文訊いたりとかする?」
 「…隼雄。ファミレスに対して何か大きな思い込みがあんじゃないの。ファミレスのウェイトレスが、日本全国全員“いらっしゃいませぇ〜、デニーズへようこそぉ〜”なんて喋り方してる訳ないじゃん」
 「―――お前…それ、似てるけど、ライバル店の名前を仕事中に口にすんじゃねーぞ」
 誰が言わせてるんだ、と内心毒づきながらも、つい鼓動が速くなってしまう。
 久しぶりだから余計、意識してしまう。久保田が見せる、いろんな表情の細かな部分を。動揺を見せたくなくて、手元の注文用のハンディに目を落とした。
 「で? ご注文は?」
 「…愛想ねぇ言い方。お前、よくクビにならないな」
 「隼雄に愛想振りまいてもしょうがないからね。ほら、早く。何もないんならお子様ランチにするよ」
 「お子様じゃないランチでいい。アフターコーヒー付きで。…あ、それと、これ」
 無言のまま、ハンディのランチのボタンを押した多恵子は、視界の端っこに何かがヒラヒラしているのに気づき、目を上げた。
 久保田が、1枚のチケットを差し出していた。眉をひそめてそれを受け取ってみると、半月後のジャズライブのチケットだった。
 「駄目もとで知り合いに頼んだら、なんと4枚もゲットできてな。1枚やるよ。瑞樹に頼んで佐倉にも渡ってる筈だから、久々にジャズ同好会で集まるのもいいだろ」
 「……」
 ニッ、と笑う久保田の顔を、多恵子は到底、直視できなかった。
 ―――なんで、あんたって、こんな風にカッコイイんだろ…。
 「…彼女とでも行きゃあいいのに」
 つい、そう憎まれ口を叩くと、久保田は疲れたような溜め息をついた。
 「んなもん作ってる暇が、新人の俺にあると思うか? 企画部(うち)の部長、とんでもないお気楽親父で、部下は全員フラフラだよ」
 「―――ふぅん。そうなんだ」
 落胆と、安堵。相反する感情が、また心の中に去来する。
 唇をキュッと噛むと、多恵子はそのチケットを、制服のポケットに押し込んだ。半月先までは、死ぬ訳にはいかないらしい―――そう思いながら。

***

 5月も終わりにさしかかった頃、多恵子は、元のアルバイト先であるジャズ・バーに立ち寄ってみた。
 「お、多恵子ちゃん、久しぶり」
 「お久しぶりぃ、マスター」
 まだ今日のバンドメンバーは集まっていないらしい。開店間もない店内は、客もほぼゼロだった。
 「どうよ、儲かってる?」
 カウンターに座り、煙草を口にくわえながら多恵子が訊ねると、マスターは泣き笑いのような顔をした。
 「はははは、儲かってたらこんな顔はしないよねぇ」
 「あっはは。だねぇ」
 「久保田君が抜けちゃったのは、正直痛かったよなぁ…。彼目当ての客が減ったからね」
 マスターの言葉に、思わずギョッとしたように目を見張った。
 「は!? 隼雄目当ての客なんていたの!?」
 「いたよ? えー、男性で5人、女性で4人かな。うち女性全員が、彼が辞めちゃってから来なくなったなぁ…。まあ、無理もないけどね。久保田君、ジャズの知識も豊富な上、喋るの上手いし。それ以外でも将来有望そうだから、女の子が目ぇつけてたのもわかるよ」
 「…ひえー…知らなかった」
 “そりゃまあ、久保田君はお得だもの。背は高い、性格はいい、顔もそこそこ、能力は優秀ときてるんだから、計算高い女なら、真っ先に狙うんじゃない?”
 かつて、軽音楽部のカズミが口にしたセリフを思い出した。
 社会人になったら、余計女は計算高くなるんじゃないだろうか―――多恵子はふと、不安になった。結婚適齢期が近くなれば、そりゃ計算高くもなるわな、と。
 ―――大丈夫かな、隼雄…。変な女にひっかかりそう…。
 「そういえば、久保田君、1回うちに、女連れで飲みに来たよ」
 多恵子の好きなカクテルを差し出しながら、マスターがあっさりとそう口にした。
 考え事をしながら、差し出されたカクテルに手を伸ばした多恵子は、その手をピタリと止め、顔を上げた。
 「女連れ?」
 「そう。4月の頭頃だったかなぁ。同僚らしいけど、美人だったよー。“彼女?”って訊いたら、2人共大爆笑でウケちゃってね。どっちもベロンベロンに酔ってたから、見ててヒヤヒヤしたよ。久保田君でも酔っ払うんだねぇ」
 「…へーえ…」
 久保田が女を飲みに誘うところなど、一度も見たことがない。基本的に少人数でワイワイ和やかに飲むのが好きな男なので、飲むときは必ず3、4人メンツを揃えると相場が決まっていた。
 第一、あの酒豪の久保田がベロンベロンに酔っ払うとは…。相手の女は相当な酒豪らしい。
 どんな人なんだろう―――カクテルを口にしながら、多恵子は不思議な興味を覚えていた。

 何故かこの時。
 多恵子の心の中には、嫉妬のようなものは一切浮かんでこなかった。
 かつて佐倉にすら覚えた胸の痛みは、全く感じなかった。久保田目当ての客がいた、と聞かされて感じた焦りも、この前ファミレスで久保田に対して「彼女」という言葉を口にした時に感じた嫌悪感も、全く感じなかった。

 それは、予感だったのかもしれない。
 まだ見ぬ、久保田の「同僚」。その人こそが、多恵子の「運命の人」―――それを、体のどこかが、察知していたのかもしれない。

***

 6月の雨にうんざりしながら、多恵子は2週間ぶりの実家の前に立っていた。
 一人暮らしを始めて以来、多恵子は月に2度、父と母が住む実家に顔を出すようにしている。一人暮らしの許しを得る際、母から出された唯一の条件だったのだ。
 月に2度の、偽りの「家族団欒」―――それと引き換えに、日頃の多恵子の自由は確保されていた。父から離れて暮らせるのなら、その位はお安い御用だ。第一、父は滅多に家族と一緒に食事をとれない仕事をしている。月に2度のこととはいえ、父がその席にいることは稀だった。シンジと暮らしていた3ヶ月だけは、レポートに集中したい、などと言って約束を反故にしたが、それ以外は一応、ちゃんと守り続けている。
 全く血の繋がらない母と、2人きりの、団欒。
 ―――血の繋がる父を交えての団欒よりも温かいのは、皮肉な話だと思う。

 ふと見ると、ポストの投入口から、封書の一部がはみ出していた。吹きつけるような雨に濡れかけていたので、門の内側に入り、他の郵便物と一緒に引っ張り出した。
 浅葱色の封筒には、見覚えのない、差出人名。宛名は、父。
 さしたる興味も示さず、多恵子はそれらの郵便物を小脇に抱え、玄関の呼び鈴を押した。


 「…なんか、やっぱり、長年一緒に暮らしてると、似てくるのかな」
 いそいそとお茶の用意をする母を見ながら、多恵子は不思議な気分を味わっていた。
 「え? 何?」
 「いや。なんか、お母さんと僕って、顔似てるなぁと思って」
 元々、目が大きい点は似ていた。けれど、母の年齢がいって、多恵子も大人になってみると、2人は本当の親子のような印象を受けるようになっていた。
 勿論、よく見れば、違う―――耳の形も、目の形も、眉の形も…2人のパーツは、全く異なる。が、傾向をいくつかに分けるならば、多恵子と母の顔は、間違いなく同じカテゴリーに分類されるだろう。
 「そうねぇ…前からよくご近所の人にも言われてたけど。お父さんの好みがそうなのかもねぇ」
 サラリとそう口にした母だったが、次の瞬間、はっ、と口を閉じた。チラリと多恵子の方を見る目は、失敗したな、と後悔している顔だった。多恵子は苦笑し、軽く首を振ってみせた。いいよ、と。
 父の好みが、こういう顔―――それはつまり、多恵子の生み母もこういう顔だ、という事を、暗に意味している。その女性の話題は、飯島家ではタブーになっていた。前妻である陸の母の話題がタブーであるのと同様に。
 また、お茶の用意に戻る母を一瞥した多恵子は、さっき取ってきた郵便物を、不要なDMと必要そうなものとに種別し出した。
 とその時、玄関から、鍵をガチャガチャと開ける音がした。
 多恵子の肩が、僅かに強張る。この家で、呼び鈴を鳴らさずに帰宅する人間は、ただ1人しかいない。
 暫くすると、スリッパを履いた足が、フローリングの廊下をパタパタと歩いてくる音がした。リビングの扉がガチャリと開くと、約3ヶ月ぶりに見る父が入ってきた。
 「なんだ、多恵子。来てたのか」
 玄関に脱いであった靴に気づかなかったのだろうか。彼は、心底意外そうな顔をした。
 「…お邪魔してマス」
 他人行儀に肩を竦めてそう多恵子が言うと、父はちょっとむっとした顔をして、鞄を床に置いた。傘をさしても濡れてしまったのだろう、背広の腕の部分やズボンの裾が、濡れて色が変わっていた。
 「あら、あなた。早かったんですね」
 「ああ。あまり体調が良くないんで、誘いは断ってきたんだ」
 「まあ…それは―――あら、そんなに濡れて。早く着替えて下さいよ? 昨日から風邪気味なんですから。医者が風邪ひいてるんじゃ冗談にもなりませんからね」
 「わかってるよ」
 テキパキとした口調で母に指摘を受けると、父はバツが悪そうにそう答え、ネクタイを緩めた。そのまま部屋に行くのかと思ったら、何故か、多恵子が仕分けしている郵便物に、何気なく目を向けた。
 その、直後。
 父の顔が、一瞬にして強張った。
 目が大きく見開かれ、頬の筋肉が痙攣を起こしている。その視線は、ちょうど多恵子が手にしていた、あの浅葱色の封筒に向いていた。裏を向けていたので、父が見ているのは、どうやらその差出人名のようだ。
 「お前―――それは、なんだ!?」
 「え?」
 訳がわからず、多恵子がキョトンとしていると、父は凄い勢いで多恵子の傍に歩み寄り、その封筒を多恵子の手から奪い取った。あまりの剣幕に、多恵子も、そして母も、目を丸くして父を見ているしかなかった。
 封筒が手を離れる瞬間、封筒の角が手を掠めていき、小さいながらも鋭い痛みを多恵子の手に与えた。思わず顔を歪め、その場所を見てみると、紙で切った時独特のむず痒いような痛みとともに、うっすらと血が滲んできていた。
 父は、奪い取った封筒を、怒りに震える手で握り締めていた。
 「なんで―――なんで、今更…」
 辛うじて聞き取れた、父の呟き。
 それで多恵子は、察した。
 察した途端、心臓が大きな音を立ててドクンと脈打った。
 「それ…お…お母さん、から?」
 思わずそう、口にする。
 すると父は、はっとしたように顔を上げ、次いで、怒りで顔を紅潮させて怒鳴った。
 「あんな女を、母親だなんて呼ぶな! 汚らわしい!」
 「―――…」

 ――― 一瞬。

 体の中を、氷よりも冷たいものが、流れていったような気がした。

 冷たくなった頭の中に、紙を破く音が響いた。
 父が、多恵子の目の前で、その浅葱色の封筒を2つに引き裂いていた。開封すらしないうちに。
 「あ…あなた! せめて一度目を通してからに…」
 母が思わず抗議の声を上げるが、父は聞き入れない。
 「多恵子が生まれてからこのかた、多恵子を施設に預ける時に連絡をよこした以外、音沙汰のなかった奴だ。どうせ、金に困ったか、自分の店が持ちたくなったかだろう。読む必要はない」
 冷たくそう言い放ち、封筒を更に引き裂いた。

 父が、多恵子の生みの母からの手紙を容赦なく破く音が、頭の中に響く。
 多恵子は、その光景を、表情をなくした顔のまま、ずっと見ていた。その手紙が、どうやっても読めない位小さな紙切れになるまで、ずっと。


 まるで。
 多恵子の体の半分が、ズタズタに切り裂かれたような気がした。


***


 雨の中、傘もささずにしゃがみこんでいた多恵子は、建物から出てくる人の気配に、我に返った。
 見覚えのあるスニーカーが、多恵子から少し離れたところで、足を止める。それが誰だか察して、多恵子は、ゆっくりと顔を上げた。
 「―――飯島さん…?」
 少し驚いたような、瑞樹の声。多恵子は、ゆらりと立ち上がり、雨に濡れた前髪をはらった。
 撮影スタジオの玄関を出て、ちょうど傘を広げたところだった瑞樹は、多恵子の姿を見つけて、目を丸くしていた。
 瑞樹に会うのは、卒業以来、実はこれが初めてだ。久保田に誘われて行ったライブなどのイベントに、彼はいつも顔を見せなかったから。こんな形で再開を果たすことになるとは、多恵子自身、夢にも思わなかった。
 けれど。
 会わずにはいられなかった。今回ばかりは。

 「―――もう…いいでしょ…?」
 やっと搾り出した声は、掠れていた。
 雨と一緒に、涙が頬を次々に流れていく。全身ずぶ濡れの多恵子にとっては、それを拭う意味などなかった。
 「ねぇ、成田。もう、いいでしょう…?」
 「……」
 「もう、やだよ―――陸の傍に行かせてよ」
 「―――勝手にすれば」
 瑞樹は多恵子の大きな瞳を見据え、感情のこもらない声で、そう告げた。
 「その代わり、俺は認めねぇよ。あんたのこと」
 「なんで!? もういいじゃんっ!」
 憤りが、行き場をなくして、暴れる。
 多恵子は、瑞樹の手から傘をはらい落とすと、彼の胸を力の入らない手で叩いた。何度も、何度も、何度も。
 「もうどうでもいい―――もう、逃げでも何でも構わない! こんな体、いらない! こんな命なんて、もういらないっ!」


 会う気などなかった母だ。
 その存在自体、日頃忘れ果てている人間―――生きてようが死んでようが、どうでもいい人間。もし今、向こうが気まぐれを起こして「会いたい」と言ってきても、きっと会うとは言わないだろう。その位、どうでもいい人間。
 それでも。
 それでも―――その遺伝子は、この体の半分を占めている。
 子供を構成する半分ずつの成分―――父親と母親。それは今更、どんなに願ったって変えることは出来ない。

 多恵子の中の半分が、もう半分によって、引き裂かれる。
 汚らわしい、と罵倒され、引き裂かれてゆく。
 これと、自らを殺す行為と、何が違うというのだろう?
 この体を抱えたまま生き続けることに、一体何の意味があるっていうのだろう?


 もう、限界―――多恵子の体は、雨の中、ずっと悲鳴をあげ続けていた。

***

 目の前にコトリ、と置かれた缶コーヒーに、多恵子は目を上げた。
 「…サンキュ」
 力なく感謝の言葉を口にし、タオルで頭を更に拭いた。瑞樹は、それには答えず、多恵子とは丸テーブルを挟んだ反対側の椅子にドサリと座り込んだ。多恵子が傘をはらい落としたせいで、彼の頭も結構濡れてしまっている。
 「成田は、拭かなくていいの」
 「―――スタジオに、それしか使えるタオルが残ってない」
 「…ごめん」
 時間外にロビーを使わせてもらっているだけでも特別措置なのだろう。偶然瑞樹が施錠の係として最後まで残っていたから、ラッキーだったようなものだ。他のスタッフだったら、ずぶ濡れのまま家に帰されていたに違いない。
 瑞樹はやっぱり、何も訊かない。ただ黙って、向かいの席で缶コーヒーのプルトップを引いている。
 事情もわからない癖に反対しやがって、という怒りは、不思議と湧いてこない。むしろ、何故何も訊かないんだろう、という疑問の方が大きかった。
 多恵子も、プルトップを引き、缶コーヒーに口をつけた。冷たくて苦甘い液体が喉を通っていく。それでやっと、言葉を紡ぎだす気力が、少しだけ出てきた気がした。

 「…成田は、なんでそこまで認めてくれないのかな」
 呟くように、訊ねる。
 水を含んだ前髪から落ちる雫が気になるのか、前髪をうるさそうに掻き上げていた瑞樹は、目だけを多恵子の方に向けた。
 「―――あんたは、なんでそうも俺に認められたい訳?」
 もっともな質問だ。死にたいなら、瑞樹が認めようが何だろうが、さっさと勝手に死ねばいい。なにも赤の他人である瑞樹に許可をもらって死ぬことはないのだ。
 多恵子は、力ない苦笑いを浮かべると、小さな溜め息をついた。
 「…成田みたいに、生きたかったからかな」
 その言葉に、瑞樹は、思い切り怪訝そうな顔をした。
 「成田は、誰にも頼らず、誰にも執着せず、一人でちゃんと歩いてる。―――どうせ生きるなら、そういう風に、強く生きたかった。強く生きて…潔く死にたかった」
 「……」
 「きっと、隼雄も佐倉も、理解できない。死が、生より幸せだなんて感覚。だから…せめて成田には、僕が死んだ時、祝福をされたかった。“なりたかった自分”から祝福されれば…それだけで、生き残った意味がある、って思える。…だから、認められたいのかも」
 自分の中を確かめるみたいに、一言一言切りながら言葉を口にする多恵子を、瑞樹はずっと訝しげな顔で見ていた。全て言い終えてからも、暫くは。
 やがて瑞樹は、大きな溜め息をひとつつくと、缶コーヒーをあおった。その顔が、幾分憮然としている。
 「―――美化しすぎ」
 一息ついた彼が口にしたのは、投げやりな言葉だった。
 「俺は、さほど強くもねーし、まともでもねーよ。あんたのがよっぽどまともだ」
 「ハハ…そんな訳ないじゃん。誰に訊いたって、僕より成田の方がまともだって言うよ」
 気の抜けた笑い声を立ててそう言う多恵子に、瑞樹は皮肉っぽい笑いを口元に浮かべると、顔を背けた。
 「―――俺は、あんたみたいに生きたくても、生きられない」
 思いがけない言葉に、多恵子は目を丸くした。
 「…え?」
 「俺は、あんたみたいに、誰かに執着することも、恋愛感情抱くこともできない。体は生き続けても、中身が死んでるから―――何も感じないし、何も欲しくない。…あんたが羨ましいよ。いろんな事感じながら、毎日生きてけるなんて」
 ―――羨ましい?
 拭ききれなかった雨の雫が額から伝い落ちるのも忘れて、多恵子は目を何度も瞬いた。
 羨ましいと思っていたのは、多恵子の方だ。なのに―――瑞樹の方が、多恵子を羨ましいと言う。信じられなかった。
 「俺があんただったら、きっと死のうなんて思わない。愛せる相手がいるなら、その存在を支えに、生きてく。…自分の意志とは無関係に命を落とす人間がゴマンといるんだ。俺もあんたも、死ぬ方が幸せな人間かもしれねーけど―――命は、そんなに簡単に捨てていいもんじゃない」

 それを聞いて―――なんとなく、理解した。
 彼の望みは、ただ普通に“生きる”ことなのだと。
 哀しい、寂しい、愛しい―――そんな感情をちゃんと感じて、誰かに必要とされながら、誰かを必要としながら生きる。…そんな、多恵子にもできている当たり前の事が、望みなのだと。
 自分が最低限望むものを既に持っている多恵子が死を選ぶのは、彼から見ればさぞや甘えた選択と映るだろう。なのに、それでもあえて瑞樹が多恵子を責めないのは、ちゃんとわかっているからだ。
 人間の「生き抜く力」には個人差があることを。

 瑞樹は、死滅した心を抱えたままでも、生き続けていくだけの力がある。
 けれど。
 多恵子には、ない。まだ人を恋うだけの心をちゃんと持っていながらも、今の自分を存続させていく力が。

 「…やっぱり…成田みたいになりたかったな…」
 視線を落とし、缶コーヒーを両手で包み込むように持つ多恵子が、ポツリとそう零した。
 「成田くらいの力があったら…どれだけ穢れた体でも、捨てずにいようって思えたかもしれない。…やっぱり、成田にだけは、認めて欲しい。僕が選んだ道は、ただの“逃げ”じゃないんだって」
 瑞樹は、逸らしていた視線を戻し、多恵子を一瞥した。
 前髪から落ちた雫に、軽く頭を振る。なんだかその仕草は、店先で雨宿りしているずぶ濡れの野良犬みたいに、多恵子には見えた。
 「―――あんたが死の瞬間、隼雄の顔思い浮かべても笑っていられるんなら、認めてやってもいいよ」
 瑞樹は、静かにそう告げた。
 「もし胸が痛むなら、それを支えに生きればいい。でも、笑えるなら―――それがあんたの幸せなんだって思えるだろ」
 「…そうだね」

 …まだ、死ねない。そう思った。
 今、死の直前に久保田の顔を脳裏に浮かべたら、きっと笑えない。胸が痛む。引き裂かれそうになる。
 もう少し、久保田を見ていたい――― 一緒に語らい、笑いあい、時間を共有したい…もう少しだけ。
 この穢れた体で触れたりはしないし、触れさせもしない。交われない存在―――それは、かつての陸と同じだ。でも、それでも…もう少しだけ。

 クスリと笑うと、多恵子は少しだけ、目を上げた。
 「成田にも、現れるといいね。成田の死んじゃった心、再生させてくれる奴が」
 他人(ひと)のこと言ってんじゃねーよ、と言われそうな気がしたが、彼はそうは言わなかった。
 「―――そうだな」
 遠くを見つめて、ただ一言、そう呟いただけだった。
 何故かその一言が、多恵子には励ましの言葉に聞こえた。

 「がんばれ」と。背中を、押された気がした。

***

 気だるい梅雨も終わりに差し掛かると、今年もまた、憂鬱な誕生日がやってくる。
 今年の誕生日は、ちょっとラッキーだった。多恵子が最近縄張りとしている六本木にあるジャズ・バーで、臨時の仕事がゲットできたのだ。なんでも、契約している音大生が風邪をひいたとかで、多恵子をよく知るバンドマンが、前日、バイト先のファミレスに直接頼みに来た。週1回とはいえ、他の店で歌っている奴に頼みに来るとは、相当切羽詰っていたのだろう。当然多恵子は、ふたつ返事でOKした。
 「ごめんよー、バイト入っちゃったよ」
 誕生日祝いをしてやる、と1週間前に電話のあった久保田に、多恵子は嬉々として連絡を入れた。果たして、電話の向こうの声は憮然としていた。
 『本当にバイトだろうなぁ? お前の場合、信用ならねーんだよ。誕生日は』
 「バイトだよ。大丈夫、保証する」
 そう言いつつも、絶対にその店の名前は明かさない。
 来られたから困る。誕生日は1人で過ごしたい。ナーバスになりがちな日に久保田の顔を見ると、きっとまた捕まってしまう。会わない間に少し小さくなったような気がする執着心が、また大きく膨らんでしまう―――それが、嫌だった。

 初めて行く店で、初めてのメンバーと組んで、初めての舞台を踏む。そしてカクテルでも飲んで、1人で過ごす―――そういう誕生日に、なる筈だった。
 少なくとも、あの瞬間までは。


 「あ…あぁ!? たっ、多恵子!?」
 素っ頓狂な声に、ちょうど歌い終わってステージを下りたところだった多恵子は、目を丸くして声の主を探した。
 そして、見つけてしまった。
 ちょうど、店のドアを開けて入ってきたばかりの、久保田の姿を。
 ―――最悪…。
 絶対、呪われている。見たくない時に限って、こうやってその顔を見る羽目になるなんて。多恵子は、にわかに湧きあがってくる絶望的な気分に、思わず額に手を当てた。
 が―――その、直後。
 「久保田? どうしたの。入り口に立ってちゃ営業妨害になるわよ」
 少し眉をひそめて、久保田の背後から顔を覗かせた人物を見た途端、その気分が、一瞬にして吹き飛んだ。

 長身の久保田とでも自然にバランスがとれる、スラリと高い背。佐倉でも真似できない程にきれいに伸びた背筋。ヘイゼルナッツのような優しい色合いの、柔らかそうなショートヘア。全体的にスポーティーなタイプだけれど、ベージュのスーツに覆われた体は、むしろとても女性的だった。
 完璧なのに、嫌味がないスタイル。それは、美人なのに健康的な印象を受ける顔立ちも同じことだ。
 バランスのとれた目鼻立ちも、明るいオレンジ系のルージュに彩られた程よい大きさの唇も、こういうのを理想的な卵型って言うんだよな、と言いたくなるような、優しい曲線の輪郭も――― 一瞬、宝塚の男役などにいそうなキリッとしたタイプに見えるが、その実、とても柔らかで艶やかな顔立ちだ。
 生きた、芸術品。多恵子は、咄嗟にそんな言葉を頭に思い浮かべた。

 「あ…、悪い。ちょっと、思いがけない奴に会っちまって」
 バツが悪そうに彼女を振り返った久保田は、多恵子に「こっち来いよ」と軽く合図した。
 「多恵子。こいつ、俺の会社の同僚で、佐々木佳那子。お前に負けない位のジャズ・フリークだぞ」
 まだ彼女に見惚れたまま、多恵子は上の空状態で会釈した。ただ、同僚という言葉とジャズというキーワードから、以前マスターが言っていた女性は、今目の前にいる佐々木佳那子だろうな、と推測した。
 「で―――佐々木。こいつ、飯島多恵子。俺の大学時代の同期。今日、誕生日の奴がいるって言っただろ? それがこいつ」
 ポン、と多恵子の頭に手を乗せる久保田の手を目で追うように、佳那子が多恵子の顔を見た。少し考える風に首を傾げていた彼女は、あっ、と声を上げた後、満面の笑みを浮かべた。
 「あ、あの、もしかして―――今、店の外で聴こえてた“アズ・タイム・ゴーズ・バイ”って、あなたが歌ってた!?」
 「え? ああ、僕だよ? 今日はここの雇われ歌手だから」
 多恵子が軽い調子でそう答えると、佳那子はますます興奮したように顔を紅潮させた。
 「凄い! ちょっと、久保田! こんな凄い友達いるんだったら、早く教えなさいよ。生でエラ・フィッツジェラルドばりのジャズ・ボーカルが聴けるなんて、最高じゃないの!」
 佳那子にパシン、と腕を叩かれた久保田は、呆れたように眉を上げた。が、佳那子は嬉しそうな笑顔のまま、おもむろに多恵子の両手を取った。
 「私、佐々木佳那子。佳那子でいいわ。もうステージ終わっちゃった? 良かったら3人で誕生日祝いしましょうよ」
 「……」
 両手を握られた状態で、多恵子はそれでもまだ、佳那子に見惚れていた。

 衝撃的だった。
 4年前の春―――多恵子がジャズ好きだと知った時、エラの物真似をしてみせろと言って笑った、久保田のあの笑顔。その笑顔と、今目の前にいる佳那子の笑顔が、ダブって見えた。
 顔立ちも、受ける印象も、全然違う。なのに…似ている。この2人は。同じ色で彩られた2人―――そんな感じがする。

 内面の真っ直ぐさを表すような、明るくて、屈折した部分が1つもない、笑顔。
 持てる生命力の強さが、体全体を覆っているような人。久保田と同じ、命の輝きを持っている人。

 魅せられる―――心が奪われる。どうしようもないほどに。

 「―――僕も多恵子でいいよ。よろしく、佳那子ちゃん」
 多恵子は、ニッ、と笑うと、少しだけ背伸びをして、佳那子のオレンジレッドの唇に、自らの唇を軽く押しつけた。
 「―――!」
 驚のあまり、瞬時に身を引き、耳まで真っ赤になる佳那子。
 そして、その傍らで、やっぱりやったかと頭を押さえる久保田を見て、多恵子は満足げに笑った。
 「ステージは終わっちゃったけど、バースディ・パーティーの余興にマイク・ジャックしようか? なんだって歌うよ? …佳那子ちゃんのために」


 それは、予感。
 勿論、どんな形になるかは、まだわからないけれど。

 佐々木佳那子―――彼女は、運命の女神。…それだけは、本能が察知している。

 彼女がきっと、導いてくれる―――笑顔で「そら」を目指すことができる、その日へと。


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