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99 : 終 章

 みぞれ混じりの雨が、髪とジャケットを濡らした。
 瑞樹は、入り口のところでぶるっと頭を振り、その水滴を僅かばかり振り払った。それでも、濡れた髪は額に少し貼りつく。うるさそうに前髪を掻き上げると、少しはマシになった。
 会場のドアを開けるとすぐ、中からすすり泣く声が聞こえ、一気に現実がのしかかってくる。けれど―――心は、案外穏やかでいられた。
 わかっているから。
 多恵子は、最後、笑顔だったに違いないと。

 まず最初に目に入ったのは、正面に設けられた祭壇。
 多恵子の遺影は、やっぱり笑顔だった。いつ頃の写真だろう―――前髪に入っているメッシュが、瑞樹の知る紫ではなく、南国の鳥を思わせる鮮やかなオレンジ色だ。多恵子らしい、ちょっといたずらっ子のような笑顔が、四角いフレームいっぱいに弾け飛んでいる。
 視線を移すと、祭壇脇に、両親とおぼしき男女がいた。
 男性の方は、白髪がかなり混じった、初老といった感じ―――多恵子の父だろう。魂が抜けてしまったような虚ろな表情で、多恵子の遺影をずっと見つめている。
 その隣の女性は、幾分若いようだ。涙をハンカチで押さえ、列席者に挨拶している。
 ―――父親の方か。
 なんとなく、察した。
 醸しだすムードが、物語っていた。多恵子が捨てたがっていたもの―――その、少なくとも1つは、あの父親だろう。こうなって初めて、自分の知らなかった多恵子の傷を知ったに違いない。それがどんな傷か、当然瑞樹は知らない。けれど、彼が、失ったもののあまりの大きさに我を忘れているのは、よくわかった。

 ―――良かったじゃん、飯島先輩。
 あんたが死んで初めて、あの親父、あんたを認めたらしいぜ。…嬉しい誤算だよな。

 皮肉の一言も言いたくなる。案外多恵子も、今頃、自分の傍らに佇む父の憔悴しきった顔を見て、満足げに笑っているのかもしれない。

 更に視線を移し、多恵子の母の横に、見知った顔と見知らぬ顔を見つけた。
 多恵子の母を気遣うように、久保田が、沈痛の面持ちで、何かを話しかけている。その腕に縋るようにして、1人の女が寄り添っていた。
 ―――なるほど。
 納得した。大いに納得がいった。
 無意識のうちに、瑞樹の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 やがて、久保田がふとこちらを見、瑞樹の姿に気づいた。
 寄り添っている彼女に何か一言声をかけ、久保田は急ぎ足で近づいてきた。また滴り落ちた雫をはらうように前髪を掻き上げていた瑞樹は、久保田の顔を見て、僅かに笑ってみせた。
 「お前が来てくれるとは、思わなかったよ」
 久保田は、少し意外そうな顔をした。
 無理もない。久保田から見たら、瑞樹と多恵子の接点は、あまりにも少ないものだっただろうから。
 「…佐倉さんから、連絡もらったから」
 そう答えると、少し納得したように笑った。
 「そうか。でも…良かったよ。俺だけじゃ、なんか心もとなくてな」
 「まるで喪主みたいに見えたぜ。それでも心もとないって顔かよ」
 少し呆れたようなニュアンスでそう言うと、久保田は、緊張が少しほぐれたのか、ほっとしたような表情をした。
 「でも、よくそんなジャケット持ってたな。お前、いっつも同じフード付のジャケットばっかりだったから、それしか持ってねーと思ってた」
 「バイト先のやつに借りたんだよ」
 「…お前、就職、うちに決まったんだろ? 少し考えろよ、服装」
 「入社式に着るスーツは持ってるからいい」
 久しぶりに会うので、そんな近況報告的な言葉をいくつか交わしながら、祭壇の方へと進んだ。途中、目を上げると、例の久保田の隣にいた女性がこちらを見ていた。やはり、多恵子とも知り合いなのだろう。なんとか1人で立っている、といった風情だ。
 「―――あんた、早く戻ってやれよ」
 軽く久保田を小突く。瑞樹の言葉に彼女の方を見た久保田は、その意味を理解して、ちょっとむっとした顔をした。
 「余計なお世話だ」
 わかりやす過ぎるリアクションに苦笑し、瑞樹は久保田を追い払うような手振りをした。それに―――ここから先は、多恵子の領域だ。久保田と一緒に入る気にはなれない。

 形式通り、焼香を済ませながら、瑞樹は時折、祭壇前に置かれた棺に目を向けていた。
 18階建てマンションの屋上から、コンクリートの駐車場に飛び降りた、と佐倉から聞いた。果たして、顔を見ることは出来るのだろうか―――瑞樹は、首を回し、こちらを見ている久保田に声を掛けた。
 「顔、見れねぇの?」
 「えっ…」
 さすがの久保田も、うろたえた顔になった。無理もない―――多分、これまで焼香した人間は、誰もその顔を確認しようとは思わなかったのだろう。死因が死因だけに、故人に思いいれがあったとしても、見る気にならないのが普通だ。
 けれど。
 見なくてはいけない―――それが、約束をした自分の責任だと思った。
 久保田は、困ったような顔で、多恵子の両親の方を見た。が、多恵子の父は、それにすら気づく余裕がないようだ。仕方なしに、多恵子の母に視線を定める。
 「あの…いいですか、見せてやっても」
 久保田がそう訊くと、多恵子の母は、驚いたように目を丸くした。
 が、やがて、すっと表情を和らげたと思うと、嬉しそうに微笑んだ。久保田ではなく、瑞樹の方に顔を向け、直接返事を返した。
 「ええ…ええ、見てあげて下さい。あの子の最期の顔ですから」
 「―――ありがとうございます」
 微笑を浮かべて会釈すると、瑞樹は棺の傍らに立ち、その小窓を開いた。

 奇跡的に無事だった多恵子の顔は、やっぱり、笑顔だった。
 僅かに目の下に小さな擦過傷があるが、それ以外は、まるで生きてるみたいだ。柔らかに、幸せそうに微笑んでいて、今にも起き上がりそうに見える。
 ―――良かった。
 やっと、心の底から、そう思えた。

 「―――多恵子。良かったな…」

 ―――うん…ありがと、成田。

 瑞樹も、答えるように笑みを浮かべた。

 とその時、祭壇の隅に飾られているものを見つけ、瑞樹は眉をひそめた。
 こんな事をしては失礼になるのかもしれない。が、思わず手を伸ばし、それを手に取ってみる。
 「…あの、すみません」
 成り行き上、多恵子の母に声をかける。多恵子の母は、瑞樹が手にしているものを見て、困ったような笑みを浮かべた。
 「これは…?」
 「―――あの子が、屋上に残していったものなんです。形見として、うちで引き取ろうと思って」
 …屋上に―――?
 瑞樹は、改めてそれをもう一度確認した。
 それは、瑞樹も見覚えがあるタッチで描かれた、1枚の絵だった。
 青い海―――幻想的なグラデーションで描かれたそれは、多分、海の底だ。
 そして、大きな岩に寄り添うように、体を丸めて眠る、一人の少年。

 ―――陸だ。

 本能的に、察する。これは、陸の絵だ。だから多恵子は、死の間際まで、傍に置いておいたのだ。
 シンジが、こんな絵を描いていたとは、知らなかった。驚くと同時に、多恵子が自分を海に誘わなくなった理由を、なんとなく理解した。
 「―――これ、棺に入れてやって下さい」
 瑞樹は、陸の絵を棺の上に重ね、多恵子の母にそう伝えた。
 「あいつ、多分、持って行きたがってると思います。…だから、入れてやって下さい」

 

 外に出ると、みぞれまじりの雨は、次第に雪に変わりつつあった。
 瑞樹は、空を仰ぐと、会場の中からここまで引きずってきてしまったいろんな思いを払拭するように、少し目を閉じた。
 “ 成田みたいに、生きたかったな…”。
 多恵子の言葉を思い出し、つい苦笑する。まさか、そんな風に言われるとは思わなかった。自分こそ、多恵子のように豊かな生き方がしたいと思っていたのに、と。

 ―――成田にも、現れるといいね。成田の死んじゃった心、再生させてくれる奴が。

 「…そうだな」
 ぽつりと、呟く。
 「もし、そういう奴に巡りあえたら―――今度はあんたが、俺を褒めてくれよな」

 それまでは、生きていく。

 たとえ地上(ここ)が、地獄であっても。


 目を開けると、空から降ってくるものは、白い雪に完全に変わっていた。
 瑞樹はふっと笑うと、ジャケットのポケットに両手をつっこみ、一歩、踏み出した。

 

――― "「そら」まで何マイル" / END ―――  
2004.5.19  


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