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「大体蕾夏ちゃんは無防備すぎるの!」
バン! とテーブルを叩く佳那子の剣幕に、蕾夏のみならず、奈々美も笑顔を引きつらせた。
「そ、そうかなぁ? 普段はそんなことない筈だけど…」
「成田限定で超無防備でしょう!? いくら友達だからって、一晩同じ部屋で寝ちゃうってのは、無防備としか言いようがないわよ!?」
「…はぁ…」
「もー、集合時間になっても現れないってオロオロしてる久保田見た時は本気で焦ったわよ。2人して熟睡してたなんて、どういう神経!?」
「いや、なんか、あの日はものすごーく眠くっ…ハ、ハ、ハクシュッ!」
蕾夏がくしゃみをした反動で、テーブルの上の食器がガチャン! と音をたてる。
「…藤井さん、まだ風邪治らないの?」
「うー…。もう1週間近く経つのにねぇ」
鼻をぐずぐずさせる蕾夏を、奈々美が心配そうに見つめた。実は瑞樹もまだ治っていないようで、今日も昼休みにミーティングテーブルに突っ伏してる姿を見かけたのだ。自業自得だと佳那子に怒鳴られていたが、もっと可哀想だったのは和臣に後頭部をはたかれていたことだろう。頭痛のする頭をはたかれて「お前は俺を殺す気か!」と叫ぶ瑞樹を、和臣は
「あー、夏風邪って長引くなぁ。こんなことなら、掛け布団死守すりゃよかった」
「らーいーかーちゃん、そういう問題じゃないでしょう?」
佳那子の声に肩を竦め、コーヒーカップに口をつけた蕾夏は、次の瞬間、急に笑顔になって、
「でも、こうやって退社後に女の子ばっかりで集まるってのもいいよね。私、女友達ほとんどいないから、ちょっと新鮮で嬉しいかも」
と言った。何を言っても無駄だと悟り、佳那子は大きなため息をついて、コーヒーカップに手をかけた。
佳那子がこうやってしつこい位に蕾夏の心配をするのは、つまりは蕾夏が気に入っているからだ。蕾夏の行動にヒヤヒヤさせられている佳那子を見るのは、結構面白かったりする。隣に座る奈々美は、少し拗ねたような表情でコーヒーを飲む佳那子の横顔を見て、クスリと笑った。
とその時、奈々美の携帯電話が鳴った。
蕾夏とは違ってまさに「ただ持ってるだけ」という奈々美は、滅多に聞かない自分の携帯の着信音にびっくりした。
「だ、誰だろ…」
慌ててバッグから携帯を取り出す。電話帳も登録してないので、番号だけ表示されても、誰からの電話かわからなかった。
「もしもし?」
『―――木下さん? 中本だけど』
奈々美の表情が強張った。
***
ゴールデンウィークのドライブを断って以来、中本からは全く連絡がなかった。
月に1、2度、会社に中本が顔を出す機会があったが、奈々美と言葉を交わすような時間はなかったし、妻のことを訊かれて笑顔で受け答えしているところも見たので、ああ、うまくいってるんだな、と勝手に思い込んでいた。むしろその頃は、和臣に蕾夏という存在が現れた事の方が気になって、中本のことなど思い出す暇がなかったのだ。
佳那子や蕾夏に聞かれないよう、化粧室前の小さな空間に移動した奈々美は、なるべく無表情な声を作った。
「私の携帯番号、どこで調べたんですか」
『会社に電話して訊いたんだ。同じ営業部だから、仕事のことで、と前置きすれば、すぐ教えてもらえた』
「…番号、変えます」
『逢いたい』
「イヤです。私、もう吹っ切りましたから―――不倫なんて、私には無理です」
『不倫じゃなければ?』
中本の発した不可思議な言葉に、奈々美は眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
『別れたんだ』
背中を、冷たいものが通り抜けていった。
『一度だけ、逢いたい。その後逢うかどうかは、君次第だから』
***
「誰からだったの?」
席に戻ると、佳那子が真っ先に訊いてきた。奈々美は曖昧に笑い、
「ん、ちょっと知り合いから」
と中途半端な答えを返した。
佳那子には言えない―――やはり、言うのが怖い。潔癖症な佳那子のことだ、話したら、軽蔑されるかもしれない。大事な友達だから、余計言うのが怖かった。
一瞬、和臣の顔が浮かんだが、咄嗟に打ち消した。和臣は、誰より一番知られたくない相手だ。
重い気分にため息をついた時、ふと、蕾夏と目が合った。漆黒の瞳に真正面から見つめられ、奈々美は思わず赤面した。
―――藤井さんの目って、直視されると、結構困っちゃうなぁ…。心の中、見透かされそう。
「そろそろ帰るでしょ。ちょっとお化粧直してくるわ」
佳那子がそう言って席を立つ。蕾夏は元々ノーメイクに近い顔だし、奈々美は今の電話のついでに化粧直しをしておいたので、黙って佳那子を見送った。
考えてみると、蕾夏と2人きり、というシチュエイションは初めてだ。少し緊張してしまう。奈々美は無言で紅茶を飲みながら、上目使いに蕾夏を見た。
「…奈々美さん。さっきの電話って、もしかして厄介な相手から?」
突然、蕾夏がそんなことを言った。
「え?」
「もしそうなら―――カズ君に、相談した方がいいと思う」
心臓が、ドクン、と跳ねた。
「…神崎君、に?」
「きっと、奈々美さんの立場を一番理解してくれるのは、カズ君だと思う。カズ君なら、常識とか法律とか、そういうもの全部を超えてでも奈々美さんの味方をしてくれると思う」
何故蕾夏は、急にそんな事を言いだしたのだろう? 心臓がドクドクと音を立て始めた。
「…成田君から、何か聞いてるの?」
思わずそう訊ねたが、蕾夏は別に表情も変えず、軽く首を横に振った。何か具体的な事を指して言っている訳ではないようだ。
「ただ、なんとなく、そう思っただけ」
2つ年下の筈の彼女は、妙に余裕ありげに微笑み、またコーヒーカップを口に運んだ。
―――不思議な人だわ、藤井さんて。
目の前にいる蕾夏から、この間瑞樹といた時に見せていたあの子供のようなストレートさが微塵も感じられない事に、奈々美は不思議な好奇心を覚えていた。
***
翌金曜日は、盆休み前の最後の出社日だった。
退社後、中本と会うことになっている。本当は断りたかったが、中本が離婚した原因の一部に自分のことがあるとしたら…と考えると、どうしても断りきれなかったのだ。
今日は和臣は、1日社内のようだ。こういう事は珍しい―――偶然も、必然のように思えてくる。
「あの、神崎君」
机に向かって書類をせっせと書いている和臣に、小声で話しかけると、和臣はパッと顔を上げ、驚いたように奈々美を見上げた。当然だろう。仕事中に声をかけたことなど、これまで一度もない。
「今日、お昼、一緒にいいかな」
「…え?」
「相談に、乗って欲しいの」
***
和臣は、思いのほか冷静だった。
軽蔑されるのではないか、と奈々美は思ったが、そんな事はなかった。ただ静かに、黙って話を聞いていた。ただ、中本が離婚したらしい、という部分では、テーブルの上に置いた手をぎゅっと握り締めていた。
「それ…本当なのかな、別れちゃったって話。オレ、全然そんな噂、聞かないけど」
「―――わかんない。でも、電話ではそう言ってたの。もし本当なら…もしかして私の責任なのかな、って思うと、やっぱり後ろめたい気持ちになっちゃって…」
「それで、奈々美さんは、その―――もし、中本さんがフリーになったら…」
和臣は、不安げな目で奈々美を見、語尾を曖昧に誤魔化した。
言わんとするところは察することができた。奈々美は自信を持って、首を横に振った。
「そ、そっか。…良かった」
ほっとしたように笑う和臣を見て、つられるように奈々美も笑う。
「で、奈々美さんは、どうしたいの?」
「…とにかく、もう、終わりにして欲しい。会うのは怖いけど、きっと会わないときっちり終わりにはできないでしょ? だから今日、会う約束だけはしたんだけど…どう断れば穏便に事が進むのか、よくわからなくて。それに…その、無理矢理どっかに、連れて行かれちゃったりとかしたら…」
奈々美の不安を理解したらしく、和臣は唇を噛んで、少し目を伏せ気味にした。そのまま何も答えず、何かを考え込んでしまった。
奈々美は、そんな和臣の顔を、返事を待ちながらぼんやり眺めていた。
―――なんか、不思議な感じ。
神崎君て、大人の男の人って感じが全然しないのよね。男の人にしては色は白い方だし、目は大きいし、睫は長いし…美青年じゃなく美少年な顔。拗ねちゃった時なんて、完全に子供。いちご大福食べる時の神崎君なんて幼稚園生よ。
なのに…その神崎君が、私の相談に乗ってる。こんな風に思い詰めた顔して、真剣に考え事してる。
この人って、こんな顔するんだ―――毎日見てるのに、全然知らなかったかもしれない。
「…オレ、ついて行く。中本さんとの話し合い、同席するよ」
おもむろに顔を上げた和臣は、きっぱりとそう宣言した。
「えっ…そ、それは、駄目よ。神崎君とは無関係な話なんだもの」
「無関係じゃないよ。だって、オレが好きな人のことだもの。中本さんとオレ、ライバルってことでしょ」
「そ、そうかもしれないけど―――私が、嫌なの。神崎君と中本さんが顔合わせるのが」
ストレートなセリフに思わず赤面しつつも、奈々美はそう言って譲らなかった。すると和臣は、ちょっと不満げにしながらも、小さくため息をついて妥協した。
「―――わかった。じゃあ、お店の外で、待ってる。30分経ったら、どんな状況でも奈々美さんを連れ出すから。それならいい?」
和臣は、それが最大限の譲歩だ、という雰囲気を滲ませて、そう言った。
いつも柔らかく笑うその顔が、何故か今日はとてつもなく大人に見えて―――奈々美は思わず、頷いた。
***
待ち合わせの喫茶店には、中本が先に来ていた。
中本の表情は、お世辞にも明るいとはいい難かった。思い詰めたような顔でティーカップを口に運び、黙ったまま何も語ろうとしない。
痺れを切らす形で、奈々美は口火を切った。
「―――あの、別れた、って…」
「…本当だよ。まだ離婚届は出してないけど、先週から別居状態なんだ」
「なん、で…」
「君のせいだ―――って言いたいところだけど、実際は違う。長すぎた春ってやつだよ。結婚したはいいけど、早くも倦怠期だ。彼女、家に全然いないしね。君のことは、彼女は知らない」
最後の言葉にひっかかり、奈々美は憮然とした顔をした。
「…知られたところで、何もないじゃないですか、私たち」
「―――痛いところを突くね」
中本が苦笑する。そう、ただ数回食事をしただけ―――最も進んだ関係は、おそらく最初のコンマ1秒のキスだろう。その後はずっと、奈々美が逃げ続けていたから。
「―――私、もう、中本さんを好きになることは、無いと思います」
目を見ると何も言えなくなりそうなので、奈々美はテーブルの真ん中あたりを見ながら、なんとか声を絞り出した。
「他に、好きな人でも出来たの?」
「…好きになりたい人は、います」
「面白い事言うね。…じゃあ、僕は?」
「……」
「はっきり言って欲しい」
「―――正直、うんざりしてます」
中本がどんな顔をしたかは、奈々美にはわからなかった。見るのが怖かった。ひたすらテーブルを見つめ、時間が過ぎるのを待った。
「…なら、最初から、キスなんてさせないで欲しかったな」
少し荒くなった、中本の語調。奈々美の体が、だんだん強張ってくる。
「少なくとも僕は、あの経験がきっかけで、君が好きになってしまった訳だし」
「―――奥様とうまくいかなくなったのが、私のせいだって言いたいんですか?」
「少しくらいは、責任を感じてくれてもいいんじゃないかな」
腹がたってきた。奈々美はようやく顔を上げて、中本の顔を見据えた。中本は、苛立ったような歪んだ顔をしている。こんな顔をする人じゃなかった―――これが本性だったのか、自分が変えてしまったのか。後者の可能性を考えると、罪悪感で胸がしめつけられる。でも、その罪悪感に負けて、中本と付き合おうとは思えない。度重なる誘いを断る過程で、中本への思いはすっかり消えてしまったのだから。
「―――とにかく、場所を変えよう。そう簡単に結論を出せるものでもないし」
ガタン、と席を立った中本の言葉に、奈々美の心臓が
―――や、やだ、どこ行くつもりなの? お茶ならここで十分だし、食事もここの軽食メニューで構わない。ここから動きたくないっ。
「い、いえ、あの…」
私はもう結論が出てますから、と言おうとした時。
中本の肩を、誰かが叩いた。
「なっかもっとさんっ」
「!?」
びっくりした中本が振り向くと、そこには、にっこり笑った和臣が立っていた。
和臣が奈々美にアタックし続けている事は、同じ会社の人間なのだから、当然中本も知っている。和臣が女子社員のアイドルであることだって、当然知ってる。その和臣がこの場にいきなり現れたのだから、中本の動揺は激しかった。
「かっ、神崎…! なんでここに?」
「なんででしょーね? とにかく、奈々美さんは連れて帰りますから」
「は!?」
中本が眉をつり上げる。が、和臣はあくまでにっこりと。
「奈々美さんはいずれ、オレが幸せにすることになってますから」
「……」
「中本さんも、それまでの“つなぎ”になんて、なりたくないでしょう?」
中本の顔色が変わった。怒りのせいか、微かに震えている気がする。だが、反論することも、掴みかかるようなこともできそうになかった。
中本が気圧されたことを見て取り、和臣は奈々美の方に目を向けた。赤い顔をして、うろたえたように視線を泳がせている奈々美に手を差し出して、柔らかな笑顔を見せた。
「奈々美さん、帰ろ」
「う…うん」
その笑顔につられたように、奈々美は思わず、差し出された手を取ってしまった。
***
「あー、気分良かった」
「…神崎君。まだ30分経ってなかったと思うんだけど」
ご機嫌な和臣を、奈々美は軽く睨んだ。本当は怒ってなどいないが、照れ隠しの部分もあった。
「え? ああ、わかってたけどね。30分も待ってたら、中本さんに拉致されちゃうと思って、もう必死だったから」
「必死? …あれが?」
余裕たっぷりに見えたんだけど…。
「でもオレ、今すんごい幸せ」
「え? 幸せ?」
「だって、奈々美さんがオレのこと頼ってくれたから」
奈々美の手を引っ張る和臣が、奈々美の方を顧みた。心から嬉しい、という笑顔を満面にたたえた彼は、
「今、すんごい幸せ」
と、同じ事を繰り返した。
自分の手を取る和臣の手が、想像していた以上に強くて大人で―――奈々美は、彼にどう応えればいいかわからず、ただ黙ってついていくしかなかった。
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