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一番古い記憶は、4歳の時。
夏祭りの人ごみの中、まだ3歳の海晴の手を引いて、瑞樹は必死に母の姿を探していた。
母がいないことには慣れている。でも、こんな人ごみの中に置き去りにされるのは、まだ4歳の瑞樹にとってはひどく心細いことだった。海晴はまだ母がいないことに気づいてなかったので、瑞樹はなんとか海晴が泣き出す前に母を見つけようと懸命だった。
結局、母に追いつくことはできず、海晴は泣き出してしまった。瑞樹も一緒に泣きたかったけれど、海晴を必死に宥めながら、真っ暗な夜道を2人きりで帰った。
どうやって宥めたか、全然覚えていない。鮮明に覚えているのは、追い縋る瑞樹と海晴の手を振りほどき、一目散に駆けていった母の浴衣の後姿―――その浴衣に描かれていた、大きな朝顔の藍色だけだ。
次の記憶は、5歳の時。
真冬のある日の真夜中、誰かの話し声がした気がして、瑞樹は目を覚ました。子供部屋を出てリビングを覗き込んだら、電話の前に椅子を引っ張ってきて、母が誰かに電話をしていた。
コロコロと鈴の転がるような軽やかな笑い声。滅多に耳にすることのない母の笑い声が嬉しかったのだろうか。瑞樹は幸せな気分になり、そのまま、寒い廊下に丸まって眠ってしまった。
明け方、新聞を取りに起きてきた父が瑞樹を見つけた。あまりの高熱に、父は救急車を呼んだ。結局、急性肺炎と診断され、瑞樹は暫く入院する羽目になった。病室に連れてこられた海晴がわんわん泣いていたが、その背後に母の姿があった記憶は無い。
別に、寂しくはない。別に、悲しくはない。記憶になくとも、体が覚えている。いつもそうやって、取り残されてきた。生まれてから、ずっと。だから、今更寂しさも悲しさも感じない。
それでも。
8歳―――あの時の記憶。
「あの日」、瑞樹の中で、何かが確実に死に絶えた。
微かに聞こえる、携帯電話の着信音。
瑞樹は現実に引き戻され、目を開けた。
冷房をかけていたのに、全身に汗をかいている。眠っていた筈なのに、心臓がやたらと早く脈打っている。床に座りベッドにもたれた状態のまま眠っていたようで、肩や首が痛かった。
聞きなれない着信音だな、と思ったが、すぐに理由はわかった。視線を巡らすと、すぐ隣に、ベッドに突っ伏すようにして眠っている蕾夏がいた。
「おい、蕾夏、電話鳴ってるぞ」
やっとそう声をかけたが、それと同時に、着信音は止まってしまった。電話の相手が、諦めてしまったらしい。
大きく息を吐き出すと、瑞樹はノロノロと立ち上がり、冷蔵庫から1リットル入りのウーロン茶を取り出した。コップに半分ほど注ぎ、それを一気に飲み干す。冷たい感触が体中にしみわたり、少し落ち着いた気分になれた。夢見が悪いと、目が覚めても余韻が体に残ってしまう。それを振り払うように、瑞樹は2、3度頭を振ってみた。
時計を見ると午後5時―――ビデオをスタートさせたのは、午後2時半だった筈だ。案の定、テレビ画面は青画面になっている。テープの巻き戻しまで完了しているようで、カウンターはゼロに戻っていた。
「蕾夏、起きろって」
「…んー…」
蕾夏はみじろいだが、目覚めるにはまだ遠いようだ。
仕方なく、ビデオデッキのイジェクトボタンを押して、巻き戻ったビデオを取り出し、テレビの電源を切った。
「―――…て…」
突如、眠っている筈の蕾夏が不明瞭な言葉を口にした。
起きたのかと思い、瑞樹はビデオテープを持ったまま、蕾夏の顔を覗き込んだ。しかし、やはり目は閉じられていて、全く起きる気配はない。どうやら寝言のようだ。
何か夢を見ているのか、瞼が時折震えている。
「―――…怖い…」
そう言った蕾夏の閉じられた目から、一筋、涙が流れ落ちた。
***
いやだ、お願い、離して。抱きしめたりしないで。
蕾夏は、自分を抱きしめる腕の曖昧な体温を感じながら、その言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
他人の体温は気持ちが悪かった。たとえそれが、日頃優しくて親切な、大学内で最も人気のある先輩のものであっても。
「好き」だと言われて、ぞっとした。優しい感情なんて、ひとつもわいてこない。ただただ、体が凍るほどの冷たさを感じるだけで。
蕾夏は、体の奥底に感じた冷たいものから逃れるかのように、思わず身を捩って、彼の胸を押しのけた。
そんな蕾夏の行動に慌てたように、抱きしめる彼の腕の力が強くなった。ギリリ、と肩の骨が軋む音がしたような気がする。
その痛みに、蕾夏の心は、暴走し始める。
背中を、焼けるような激痛が駆け抜けた。ガタガタと体が震え出し、視点が定まらなくなってくる。冷たい汗が次々に噴出して、呼吸がどんどん浅く速くなってゆく。蕾夏は、言う事をきかない手で、必死に先輩の胸を叩いた。離して、離して、離して、と。
背中に回った先輩の手が戸惑ってるのがわかる。余計にその腕の力が強くなる。逆効果なのはわかっている。落ち着かなくては、そう思うのとは裏腹に、心はどんどん追い詰められていく。
ダメ、どうしても止められない。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い―――…!!
次の瞬間―――蕾夏は「あの日」と同じ絶叫をあげていた。
「蕾夏」
びくん、と蕾夏の肩が反応し、蕾夏が目をぱちっと開けた。
涙で濡れている目は、暫く中空をぼんやりと捉えていたが、やがて焦点が合い始めたらしく、ようやく瑞樹の目を見返した。
「大丈夫か」
「…え?」
「お前、眠りながら、震えてたから。思わず起こしちまったけど、大丈夫か?」
「―――あー…、ごめん。悪い夢、見てたみたい…」
蕾夏は、ゆっくり頭をもたげて、手の甲で涙を拭った。体の震えは止まっているようだ。
「携帯鳴ってた。―――ウーロン茶いるか?」
「ん、いる」
瑞樹がコップをもう1つ出してウーロン茶を注いでいるそばで、蕾夏はトートバッグを引き寄せ、中から携帯電話を取り出した。が、液晶に表示された名前を見ると、眉を顰めてそれをポイッと床に放り出した。
「辻さんか」
「ビンゴ」
疲れたような口調でそう言うと、蕾夏は差し出されたコップを受け取り、ウーロン茶を2口3口飲んだ。
瑞樹も、改めて自分の分をコップに注ぎ、いつもの定位置にあぐらをかいた。
「あーあ…また佳那子さんに叱られるなぁ」
冷たいウーロン茶を飲んで一息ついた蕾夏が、小さなため息混じりに、そうポツンと呟いた。
「なんで」
「眠っちゃったから」
「仕方ないだろ。この映画が退屈すぎるんだから」
本当は眠った事ではなく「男の一人暮らしの部屋に上がりこんだ」事自体の方が問題なのだが、そこには2人とも考えが及ばない。出会い方が性別不詳な文字の世界だったせいか、瑞樹にしろ蕾夏にしろ、相手が異性だという意識が異常なまでに希薄なのだ。
「瑞樹、どの辺まで見た?」
「多分、半分もいってない。お前早かったよなぁ。開始15分で撃沈じゃ、役者も浮かばれねーぞ」
「うー…、あのスローテンポと妙な音楽が眠気を誘うんだよねぇ…」
「良し悪しは置いといて、どうも俺らは駄目そうだな、ベトナム映画は」
とその時、床の上に放り出されていた蕾夏の携帯電話が、また無機質な着信音を鳴らし始めた。
蕾夏はチラリとそちらに目をやったが、手に取る気はないようだ。
「放っといていいのか?」
「いいの」
着信音は暫く続いたが、やがて、諦めたように切れた。
その瞬間、蕾夏の顔に後ろめたいような表情が浮かぶ。が、その思いを断ち切るかのように、蕾夏は目を伏せて、両手で包んだコップを口に運んだ。
後ろめたい、心が痛む、でも―――また携帯が鳴ったとしても、蕾夏は取らないだろう。瑞樹にはそう思えた。
蕾夏は、自分の過去については口が重い。それでも「辻さん」という名前は、何度か耳にしている。
「辻さん」は、蕾夏の幼馴染である「翔子」の兄だ。医者をしているそうで、蕾夏が中学2年で日本に帰ってきてからは、学業面でも生活面でも、いわばアドバイザー的な役割を果たしていたらしい。
前にも一度、2人で映画を観に行った帰りに、「辻さん」から電話が入ったことがあった。自宅に電話したら出なかったので、携帯に電話をかけてきたらしい。その時の蕾夏の様子から、彼女がその電話を迷惑がっているのは一目瞭然だった。
「多分、次はいつ帰ってくるのか、っていう電話だよ。想像つくから、別にいいの」
瑞樹の視線を感じたのか、蕾夏は、少し苦笑しながらそう補足した。
「夏休みに帰った時、会わなかったのか?」
「1日しか帰らなかったから、スケジュール合わなかったんだ」
「ああ…お前も仕事で休みの大半が潰れたんだったよな」
「瑞樹だってそうじゃん」
「俺は元々、夏は帰らねーし」
「―――おかわり、いる?」
瑞樹のコップが空になったのを見て、蕾夏が訊ねた。
「いや、いい」
「私、もうちょっと貰おっと」
少しだけ残っていたウーロン茶を一気に飲み干すと、蕾夏は2人分のグラスを手に台所に向かった。
***
冷蔵庫を開けようとした時、蕾夏の目が、その背の低い冷蔵庫の上に置いてある1枚の葉書に吸い寄せられた。
「ね、これ、誰?」
蕾夏の問いかけに振り返った瑞樹は、その視線が問題の葉書に向けられているとわかると、少し困ったような笑顔をみせた。
「妹」
「結婚したの?」
「らしいな」
それは、結婚報告の写真入り葉書だった。
キャンドルサービスか何かの一場面だろうか。目の覚めるような藍色のドレスを着た女性と、白のタキシードを着た男性のツーショット。女性の方は、色素の薄さといい、明らかな丸顔といい、瑞樹よりは和臣あたりの妹と言った方がよさそうだ。
「可愛いね。瑞樹とはあんまり似てないみたいだけど。私と同い年だっけ?」
「そう。妹は母親に瓜二つで、俺は親父に瓜二つだから、似てないのも無理ないな」
「うーん…確かに、瑞樹の中にはお母さんの遺伝子のカケラも見つからないなぁ…」
写真と瑞樹を何度も見比べながらしみじみ言う蕾夏に、瑞樹は不機嫌な顔で「あんまり見るなって」と文句を言った。
瑞樹も、自分の過去については口が重い。それでも、妹の話は何度か聞いていた。
切れ切れにもたらされる情報を貼り合わせると、ほとんど親代わりのような瑞樹の姿が浮かぶ。両親が共働きで、かつ休日もバラバラだったとはいえ、その様子はちょっと常識外れに感じられた。
瑞樹がシステムエンジニアになったのは、システムエンジニアだった父の影響なのだと聞いた。両親の離婚後、共に助け合って暮らして来た父を、彼は結構尊敬しているようだ。
ただ―――母親の話は、今のところ一度も耳にしたことがない。わざとなのか、それとも単に母親について語るべき思い出が何一つないに過ぎないのか、そのあたりは推測することができなかった。
「妹さんの顔って、何年ぶりに見たの?」
「俺が中3の時が最後。その写真見るまで、どんな顔に成長したか知らなかった」
「結婚式、出てあげればよかったのに…。お兄ちゃん子だったんでしょ?」
「まぁな。―――でも、向こうも再婚して、両親揃ってることだし。今更俺が出て行くような状況でもないだろ」
「…そうかもしれないね」
ひとりっ子の蕾夏には、そして両親とも仲の良い蕾夏には、瑞樹や海晴の気持ちを測り知ることはできない。それ以上の詮索をしようとは思わなかった。
「でも、良かったね」
「何が?」
「久々に見る顔が、幸せそうな顔で」
「―――ああ、確かにそうだな」
少し表情を緩め、瑞樹はバツが悪そうに視線を逸らした。それを合図にしたように、蕾夏は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、自分のコップに半分ほど注いだ。
「瑞樹は、なんか、疲れた顔してる」
「俺が?」
バタン! と冷蔵庫の扉を閉め、1つだけコップを持って席に戻ると、瑞樹が不審気な顔をして蕾夏の説明を待っていた。
「うん。さっきからずっと、顔色が良くない。もしかして、どっか具合悪い?」
瑞樹は、暫し考えを巡らせた。そして、苦笑しつつ、
「悪い夢見たせいかな―――多分」
と答えた。
それに対して蕾夏は「そっか」と短く答えただけだった。
「もう5時だな…ビデオ返却しがてら、何か食いに行く?」
「うん」
どんな夢だったの? とは、蕾夏は訊かなかった。
どんな夢だったんだ? とは、瑞樹も訊かなかった。
それはお互い、訊かれても答えられない人間の辛さを、知っているからかもしれない。
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