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宵の月 〜彼の都合 彼女の事情〜

※ご注意※

この作品は、第3回キリリク断念・ストーリー・ランキングにお応えして書いた作品、「母の都合 娘の事情」、および、140万ヒット作品「父の都合 息子の事情」とセット作品となっております。
読む順番としては、「母の都合 娘の事情」→「父の都合 息子の事情」→本作品、が望ましいです。未読の方は、先にその2作品を読むことをお勧めします。

↓↓↓
「母の都合 娘の事情」を読む(別窓で開きます)
「父の都合 息子の事情」を読む(同窓で開きます)

 

 宵待草は、その路地の裏手で、ひっそりと夜を待っていた。

 夜は、暖かい。
 初夏の夜に吹く風は、梅雨の名残に微かに露を帯び、長く伸ばした首を揺らしてくれる。頭上に輝く月の光も、冬のように煌々と冷たい光を放つのではなく、薄い雲の向こうから、淡く、優しく、照らしてくれる。

 昼の眩しすぎる光は、嫌い。
 明るい光には、大輪の花が似合う。競うように咲き誇る、たくさんの花々―――けれど、自分には、そんな明るい光には似合わない。

 夜は、優しい。
 宵待草は、路地の裏手で、優しい夜を静かに待っている。

 


 「新しい話、書けたの?」
 頭上からの声と同時に、手元が暗くなった。
 シャープペンを持つ手を止め、見上げると、そこに和佳子の姿があった。微笑んだ玲は、広げていたノートをパタンと閉じた。
 「ううん、まだ、書き始めたばっかり」
 「いつ頃、書き上がりそう?」
 「うーん…、あまり長い話にするつもりはないから、今月中には上げちゃいたいかな」
 「書けたら、読ませてよね。新作楽しみにしてたんだから」
 うん、と答えつつ、席を立つ。玲と和佳子は、2人並んで、講義室を後にした。


 窓ガラス越しに見上げた空は、すっかり秋の空になっている。青い空にぽっかりと浮かぶ白い雲を眺めて、ああ、読書の秋だなぁ、なんてことを玲は思った。
 「食欲の秋なんだから、学食も、季節のものを取り入れて欲しいなぁ」
 「あはは…、和佳子は“食欲の秋”なんだ」
 変わりばえのしない定食を前にため息をつく和佳子を見て、玲が可笑しそうに笑う。和佳子は、いわゆる「痩せの大食い」だ。結構羽振りのいい社会人の男性と付き合っているせいか、かなりの美食家でもある。…にしても、学食にそういう期待を寄せるのは、どう考えても無茶だろう。
 一方の玲は、お手製の弁当だ。学食の窓際の席に陣取った2人は、並んでそれぞれの昼食に手をつけた。
 「玲はやっぱり“読書の秋”?」
 「そーだねぇ…。サークルの同人誌の締め切りも近いことだし」
 うずら卵をもぐもぐと食べながら、視線を天井に向ける。文芸サークルが年2回発行している同人誌の締め切りが、今月末に迫っていた。それ用の作品は、既に半分以上書きあがってはいるのだが―――今日書きはじめたあの短編の出来次第では、ギリギリで差し替えるのも悪くないな、と玲は思った。
 「でも、書く方に集中しちゃうから、読む方にはあんまり情熱傾けられないかも。だとすると、厳密には“読書の秋”じゃないね」
 「じゃあ、何? ええと……“執筆の秋”?」
 「安上がりな秋だよね」
 「だけど、なんか想像すると、ちょっと寂しいわね。いい季節だってのに、家にこもって1人でせっせと原稿書いてる姿って」
 「…ほっといて」
 憮然とする玲の横顔を、定食の味噌汁を上品に口に運んだ和佳子は、暫しじっと見つめた。それから、何気ない風を装って、朝からずっと言いたかった話題を切り出した。
 「…サークルで思い出したけど―――今朝、見ちゃった」
 「え?」
 「雪哉君」
 「……」
 「3階の踊場のとこで、女の子と、なんか話してた。どう見ても告白シーンて感じ」
 どことなく、非難するような色合いを滲ませた声で、和佳子が淡々と告げる。けれど、玲の反応は、至ってクールだった。
 「ふーん。そっか」
 「…気にならないの? どうなったか」
 「想像つくからね」
 どうせ雪哉は、また断ったのだろう―――いつもと同じ理由で。雪哉に告白してくる女の子のタイプは大体決まっているから、容易に想像がつく。
 「…ねぇ。雪哉君が毎回断るのって、やっぱり玲がいるからじゃないの?」
 完全に昼食そっちのけで、和佳子は頬杖をついて、そう訊ねた。
 「なのに彼って、断る時の決まり文句は“今、そういう気になれない”なのよね。…それってちょっと、玲に対して失礼じゃない?」
 「別にあたしは、失礼と思ってないし」
 「またそんな甘いことを…。わかんないわ、玲と雪哉君の関係って。どう見たって、お互い気があるのバレバレじゃないの。どうして中途半端な友達関係のままでいる訳? どっちもフリーなんだし、つきあっちゃえばいいのに」
 「いいじゃない、友達同士でも」
 「そりゃ、そうだけど……でも、雪哉君がいるせいで、玲のこと狙ってる連中だって、誘いにくくなってるじゃない? 彼女でもないのに、周囲にそう思わせておくのって、なんかずるくない?」
 「あはは…、あたしを狙ってる奴なんて、いないってば」
 そんなことないわよ、と和佳子が目を吊り上げるのと同時に、テーブルの上に置いた玲の携帯電話が鳴った。電話じゃなく、メールの着信音だ。
 パチンと、携帯電話を開き、届いたメールを開いた玲は、ほんの少しだけ、表情を変えた。

 『帰りにちょっと会えないかな。図書館で待ってるから』

 ―――珍しい。どうしたんだろ、わざわざ。
 雪哉から、メールだなんて―――眉をひそめた玲は、それでも「OK」と返事を打った。

***

 「同人の投稿作品、仕上がった?」
 図書館を出て、ジャケットを羽織ながら、雪哉は穏やかな声で玲にそう訊ねた。
 いきなりメールなんて寄越してくるから、何かあったのではないか、と少し心配したのだけれど、こうして見る限り、雪哉の様子は普段と何ら変わりがない。内心、首を傾げつつも、玲の方もいつも通りの態度を取ることにした。
 「んー、大体上がってるんだけど、実は別のやつを書き始めちゃって…」
 「並行で? 凄いな」
 「急に、書きたくなっちゃったからね。雪哉は?」
 「夏に書いたショートショートを、手直ししてる」
 「ああ、あれ…」
 夏に雪哉が書いた短編は、若くして亡くなったかつての恋人が、夏の夜、死期の迫った主人公のもとを訪れる、という、ちょっとホラー含みなファンタジーだった。といっても、文体も内容も純文学風で、雪哉らしい情感溢れる、いい作品だった。
 「いいんじゃない? あたし、あの話凄く好きだったな」
 「でも、ちょっと暗いかな、と思って、まだ迷ってるんだ。…玲の新作って、どんなの?」
 「一応、恋愛モノ、かな」
 歩き出しながら玲が答えると、雪哉は、ちょっと意外そうな顔をした。
 「へえ…、玲が恋愛モノなんて、珍しいな。なんてタイトル?」
 「―――“宵待草”」
 「…“待てど暮らせどこぬひとを、宵待草のやるせなさ”……って?」
 「あはは、“今宵は月も出ぬそうな”―――別に一葉を気取った訳じゃないけどね」
 「ふうん…宵待草、か。切ないな」
 歌うように呟いた雪哉は、視線を、どこか遠くに流した。
 多分―――彼は、知っているのだろう。宵待草という花の、花言葉を。

 宵待草の花言葉は、「物言わぬ恋」。
 まるで、雪哉の恋のためにあるような、花言葉だ。


 玲が、雪哉の想い人のことを知ったのは、雪哉と友達になって比較的まだ日が浅い頃だった。
 玲と親しくしていた同期生が、大学入学当初から雪哉に想いを寄せていて、雪哉との橋渡しを玲に頼んできたのが、そもそものきっかけだった。
 同性から見ても、なかなか可愛い子だったと思う。まるで綿菓子みたいにフワフワしてて、女の子らしくて―――雪哉の好みは知らないが、物静かな雪哉には、彼女はよく似合うように思えた。お互い顔も見知っている筈なので、玲は彼女の頼みを受けて、雪哉に彼女の気持ちを伝えた。
 ところが、雪哉の答えは、期待したようなものではなかった。

 『…あのタイプは、俺、駄目なんだ』
 『な…なんで? 好みじゃない?』
 『いや―――好みだから、駄目なんだ』

 雪哉には、長年、片想いをしている女性がいた。
 雪哉の父の同僚で、かつ、他界した雪哉の母の、親友―――千春という名の、15歳も年上の女性だ。
 元々は、千春の夫と雪哉の父が、職場で親しい関係にあったため、両家も親しく交流していたらしい。ところが―――ある日、千春の夫が、事故で他界。それでも、雪哉の家族は、残された一人娘を女手ひとつで育てる千春を不憫に思い、またその頑張りに尊敬の念を抱き、千春の夫亡き後も、それまで同様に……いや、それまで以上に親しく付き合ってきた。
 2年ほど前、今度は雪哉の母が病死してしまい、さすがに以前のような頻繁な交流はなくなってしまった。が、どっちにしろ彼女は父の会社の同僚―――今も月に1度は、お互いの家を行き来したり、会社の慰安旅行にみんなで参加したりしているという。
 そんな家族ぐるみの付き合いの中で、雪哉はずっと、密かに千春を想い続けていた。
 綿菓子みたいにフワフワした、少女っぽいムードの女性だという。そう―――ちょうど、玲が間を取り持とうとした友人のようなタイプだ。

 『…高校の時、千春さんと似た子に告白されて、付き合ったことがあるんだ。でも……結局、駄目だった。俺が彼女の告白にOKしたのって、千春さんと見た目が似てるから、ただそれだけだったんだ、ってわかったから。…千春さんの身代わりにしてたんだよ。最低だろう? あの時の後悔が忘れられないから……俺、千春さんと似たタイプは、好みだけど苦手なんだ』

 悲しいかな、雪哉は、その「千春さんと似たタイプ」に好かれる運命にあるらしい。それ以降、雪哉に告白してきたり、雪哉に想いを寄せた女性は、みんなフワフワした可愛らしいタイプばかりだった。結果―――雪哉は、好みの女の子に何度か告白されてきたというのに、今もフリーの状態だ。
 そして今も、叶う望みもほとんどない不毛な想いをどうしても捨てられず、ずっと、千春を想っている。
 ただ黙って―――想いのかけらすら口にせず、ひっそりと千春を想っている。


 「…なんか、あった?」
 ちょうどいい話のタイミングだと思った。玲は、普段と変わらない「フリ」をしている雪哉の横顔に、静かに問いかけた。
 どこか遠くを眺めていた雪哉の視線が、玲の上に戻ってくる。案の定―――携帯にメールを受け取った時に予感したとおり、平気なフリを止めた雪哉の目は、暗く翳っていた。
 「―――…昨日、うちに、千春さんとつぐみが来てさ」
 想い人と、その人の娘の名を口にした雪哉は、薄く笑みを浮かべた。
 「…千春さん、結婚する、って言うんだ。…うちの父さんと」
 「……え……っ」
 「来年の、春。…あの人が、俺の父さんの“妻”になるんだってさ」
 「……」
 それは―――さすがに、考えてもみなかった。
 好きだった…いや、今も好きな人が、自分の父親の、妻になる。…その心境を推し測ろうにも、自分の身に置き換えるのは、酷く難しい。試しに玲は、姉が雪哉をフィアンセとして連れて来るシーンを想像してみた。そして、想像したことを瞬時に後悔した。
 「…そ…れで?」
 かける言葉も見つからず、訊ねてみる。すると雪哉は、小さく息をつき、視線を地面に落とした。
 「―――弟は賛成。つぐみも賛成っぽい。父さんたちの言うこと、俺もわかるんだ。多分…俺たち5人、1つの家族になった方が、きっとマイナスよりプラスが多くなるだろうな、って。でも……」
 「…でも?」
 「…賛成、できなかった」
 「……」
 「反対も、できなかった。…できる訳、ないだろう?」
 ―――うん、そうだね。
 口に出して相槌を打つことは、できなかった。玲は、自らも落ち込んでしまったかのように、無言のまま視線を地面に向けた。

 暫し、2人並んで、黙って歩く。黙ったまま、それぞれに考えをめぐらせていた。そうして、信号で立ち止まったのを機に口を開いたのは、雪哉の方だった。
 「…玲、」
 「…なに」
 「俺…、どうすればいいのかな」
 いつも理性的な雪哉らしくない、混乱したセリフ。
 ふっ、と困ったように笑った玲は、頬にかかった髪を指ではらいながら、雪哉を見上げた。
 「そんなの―――あたしにわかる訳、ないよ」
 「……」
 「…10年近い、片想いでしょ。1日2日で気持ちが切り替えられる人なんて、どこにもいないって。だから、時間かけて―――雪哉が納得する答えが出るまで、ゆっくり考えればいいよ。雪哉の心は、雪哉のものだもの。雪哉自身で、答え、見つけないと」

 ―――…多分。
 今、ここで、「大丈夫、あたしがいるから」と言ってあげたら……雪哉も、玲も、楽になるのだろう。
 忘れられなくてもいいよ、と言ってあげられたら、今すぐにでも、全部、決着がつく。雪哉は多分、それを期待しているのだろうし、その期待に応えるのは、玲にとってはとても簡単なことだ。
 でも……。

 「それまで、愚痴くらい、いつでも聞いてあげるよ」
 背伸びをして、雪哉の頭にぽん、と手を置く。頭の上の重みに、少しホッとしたみたいな顔をした雪哉は、うん、と小さな声で答えて、頭上の玲の手を取った。
 「ごめん。思い切りの悪い奴で」
 「…バカ。今更」
 取られた手は、そのまま緩く握られた。けれど、玲はあえて、雪哉の手を振り解こうとはしなかった。
 なんとなく、手を繋いだまま、歩く。きっと、こんなシーンを見た人が、2人の仲をあれこれと噂するんだろうな、と玲は思った。


 2人は、友達だ。
 共に文学を愛し、共に四季の彩を愛し―――語り合うことで、繋がっていられる友達。そこに、愛の告白もなければ、抱擁もない。間違いなく、2人は友達だ。
 でも、ここ数ヶ月……2人の間の空気は、時々、友達にしては甘くなりすぎる。
 人は、相手に魅力を感じ、相手をもっと知りたいと思うから、友達になる。友達になった時点で、相手は自分にとって、その他大勢とは違う「特別」になる。それは、同性同士でも同じことだ。
 だから、男と女は、難しい―――友達だというだけで、他の異性とは違う位置づけになってしまった相手だ。もしそこに、それ以上の興味や魅力を感じてしまえば、その距離をキープし続けるのは難しい。彼と、いかにして「ただの友達」であり続けるか―――それは、ここ最近の、玲の最重要課題だ。

 雪哉は、何も言わない。
 玲も、何も言わない。
 けれど、お互いに何となく、わかっている。何の告白も約束もないけれど―――何かのきっかけがあれば、自分たちは、ただの友達ではなくなってしまうんだろう、と。


 …夜は、優しい。
 宵待草は、路地の裏手で、優しい夜を静かに待っている。


 玲には、秘密があった。
 その、秘密故に―――玲の恋は、「物言わぬ恋」のままだ。


***


 雪哉と出会う、もっと前―――玲には、大切な友達がいた。

 高校1年の秋に、2人は生徒会で初めて出会った。
 優等生だった玲と、赤点ギリギリだった亮人―――玲は教職員からの推薦で、亮人はバスケ部の連中におだてられての立候補だった。勉強以外に時間と情熱を取られるなんてバカのすることだ、という風潮の進学校で、役員に立候補する人間なんて、滅多にいなかった。だから、2人は無投票で、あっさり会計と書記に収まった。
 亮人は、明るくて、ノリが良くて、いつも場のムードメーカーだった。ただ、責任のある仕事をさせるには、少々ルーズすぎる性格だった。だから玲は、いつも亮人を叱り飛ばす羽目になる。「いい加減にしなさいよね」という玲の文句と、「さすが玲、頼りになるなぁ」という亮人の誉め殺しの言葉は、その年の生徒会の名物になった。
 まるで、正反対の2人―――けれど、何故か気は合った。
 昨日テレビでやっていた映画のことを話したり、バスケの試合の応援に行ったり、文化祭の出し物について遅くまで意見を戦わせたり―――灰色をした高校生活の中、亮人と過ごした時間は、いつだって明るく輝いていた。気づけば、生徒会を退いた後も、玲と亮人は、お互いを「友達」と呼び合う関係になっていた。

 亮人には、憧れている人がいた。
 生徒会時代、会長を務めていた、1つ年上の先輩―――高遠先輩だ。
 高校受験の日に、偶然見かけたのが最初だと言う。亮人の一目惚れだった。部の連中におだてられて立候補したのも、会長に高遠先輩が立候補すると知ったのが理由だったらしい。
 そして、無事、彼女と同じ生徒会の役員となったのに―――亮人は、場のおちゃらけ役ばかり演じてしまい、高遠先輩にアタックしようとはしなかった。

 「なんで、告白しないの? 先輩も亮人のこと、結構好きみたいに見えるのに」
 亮人らしくない態度を不思議に思って玲が訊ねると、亮人は、まるで別人みたいに暗い表情で、力なく首を振った。
 「…高遠先輩、伊藤先生が好きなんだってさ」
 「伊藤、って…あの、新任の?」
 「うん。…しかもさ。伊藤先生の方も、まんざらじゃないみたい。生徒だから手ぇ出せないんだろうけど……さすがに敵がデカすぎるよ」
 実際―――伊藤先生は、女子に絶大の人気を誇る新任教師で、性格的にもルックス的にも申し分ない人物だ。しかも、亮人じゃ絶対追いつかないほど、年齢的にも精神的にも、大人だ。一方、高遠先輩も、明るくて華やかで美しくて―――教師が、立場も忘れて心がグラつくのも無理もない、と思わせるような少女だった。
 「下手に告白なんかして、気まずくなりたくないよ。今のままなら、いい先輩・後輩でいられるんだし」
 もとより、叶う筈のない恋だ。今の関係を壊してまで、告げる必要はない。
 そう決めた亮人に、玲も、何も言おうとはしなかった。


 そんな感じで、2年生の夏休みが終わり―――季節は、秋。3年生はいよいよ、受験勉強に本腰を入れ始め、学校の空気も次第に受験モードに入っていった。
 先輩が卒業するまでの残り時間を数えて、亮人もだんだん考えが変わってきたのだろう。
 「…なんか、最近、もうすぐ先輩と会えなくなるんだなー、と思うと、苦しくてさ」
 高遠先輩と亮人の関係は、やっぱりいい先輩・後輩のままだった。まるで弟を可愛がるみたいに、亮人を可愛がっている。でも、可愛い弟のまま先輩の記憶に残ってしまうのは、亮人の「男」の部分が耐えられなかった。
 「伝えれば、何か、変わるかな」
 「…あたしにも、わかんないけど…」
 幼い初恋しか経験のない玲には、教師という年上の大人に想いを寄せるような高遠の気持ちなど、到底想像し得なかった。けれど。
 「でも―――黙っているのが辛いなら、言っちゃった方が、楽になるんじゃない?」

 その年の文化祭が終わった後、亮人は、高遠先輩に想いを告げた。
 そして、予想通り―――あえなく、玉砕した。

 懸念していたとおり、亮人に対する先輩の態度は、それまでとは変わってしまった。
 かつての生徒会メンバーで集まっての文化祭の打ち上げ会にも、高遠先輩だけ、顔を見せなかった。廊下ですれ違えば笑顔で冗談の1つも言っていたのに、亮人と目が合うと、顔を強張らせ俯いてしまうようになった。
 彼にとって、初めての真剣な恋だった。叶わなくても、高遠に笑いかけてもらえるだけで、幸せだった。そんな純粋さ故に、高遠のあからさまな拒絶は、亮人を深く傷つけた。亮人は落ち込み、目に見えて元気を失っていった。
 そんな亮人を、玲は、ずっと励まし、慰めた。
 休日には遊びに連れ出し、亮人が好きそうな映画を選んで一緒に行き、できる限りの時間を作って、一緒にいてやるようにした。日頃明るい亮人が落ち込んだ時の、危険なまでの暗さが、怖かった。1人にしてしまったら、何かしでかすんじゃないか、という気がして、放っておけなかった。

 「もう、いいんだ。高遠先輩のことは」
 初雪が降る頃に、亮人は、思いつめたような顔で低くそう言った。
 その少し前、高遠先輩と伊藤先生が密かに交際しているらしい、という噂が、生徒たちの間に流れた。その内容はかなり過激なもので、学校側に知られれば、伊藤先生がクビになることは間違いない、という位のものだった。幸いにして、一部の生徒の間で囁かれただけで消えてしまったが―――多分、その噂が、最後まで保っていた亮人の中の何かを、壊してしまったのだろう。
 「高遠先輩のことは、忘れた。どうでもいい。元々オレの片想いだったんだし、いつまでも失恋してウジウジしてるなんて、オレらしくないや」
 今にして思えば、その時の亮人の声は、どこか投げやりで、自暴自棄になっているような声だった。
 恋心をズタズタにされて、自暴自棄になった亮人の目の前には、友達が―――玲が、いた。
 「オレ、先輩より、玲の方が好きだよ。玲の方が優しいし、玲といる方がホッとできる。…オレの彼女になってよ。玲」

 玲は、亮人に元気になって欲しかった。
 大切な友達に、早く立ち直ってもらいたかった。
 だから―――全身全霊ですがり付いてくる亮人を、突き放すことができなかった。


 12月の声を聞く頃に、亮人は、玲の彼氏になった。
 亮人は、明るかった。よく冗談を言って、玲を笑わせた。それは、友達だった時と何ら変わらない関係―――だから周りは、2人の関係が変わったことに、全く気づいてはいなかった。
 でも、玲にとっての亮人は、次第に「友達」ではなくなっていった。
 初めてのキス、初めての抱擁―――相手が亮人であることに戸惑いながらも、玲は少しずつ、少しずつ、亮人との距離を縮めていった。交際を受け入れた時には、どこを探しても見つけられなかった「恋心」も、桜の花が散る頃には、もう当たり前のように玲の中に息づいていた。

 …けれど。
 その恋は、紫陽花の蕾が開く季節までは、生き永らえなかった。


 「亮人君―――…?」
 2人で出かけた街中での、偶然の再会。
 大学生になった高遠先輩は、セーラー服姿だった時の何倍も、綺麗になっていた。そして……その隣に、伊藤先生の姿は、なかった。
 「そっか…、玲ちゃんと付き合い始めたのよね。その様子だと、今も上手くいってるみたいね」
 くすくすと、懐かしそうに笑う高遠先輩の前で、亮人は石になったように動かなかった。玲の右手に繋がれた、亮人の左手―――急激に温度を失い汗ばんでいく手のひらを感じて、玲は、なんだかいたたまれなくなって、その手を放してしまった。
 「あ…っ、私? 私の方は……うん、見てのとおり。卒業して、生活がバラバラになっちゃったら、なんか……、ね。いいの、もう別れて半月経つし、そろそろ落ち着いてきたところだから、気にしないで」

 ただ、それだけ。
 先輩と、一度、再会しただけ。
 その、たった1回の再会で―――放してしまった手は、二度と、繋がれることはなくなった。

 亮人は、ずっと目を逸らしていたものと、向き合ってしまったのだ。
 少しも消えていない、先輩への想い―――玲を抱きしめることで誤魔化し続けてきた想い。もう忘れたと口でいい、自分でもそう思い込もうとしていたものを、あの日、目の前に突きつけられてしまったのだ。
 亮人は、玲と一緒にいても、笑えなくなった。
 いつも、罪悪感のようなものを宿した目をして、何かに怯えるようにしながら、玲の隣にいた。
 その、亮人の気持ちが、わかるから―――今、亮人が何を考え、何を望んでいるかが、わかるから。玲は、自分の方から、それを口にした。


 紫陽花の季節を前に、玲は、亮人と別れた。
 それと同時に―――玲は、亮人という、大切な友人を失った。

 


 ―――キミは、誰を待っているの?

 問われて、宵待草は、小首を傾げるようにしながら、小さく笑った。

 …誰も、待っていません。
 私の目の前には、あなたがいる―――私は、“その時”を、待っているんです。

 あなたが、優しい夜に抱かれて、優しい夢を見られる時を―――あなたのその恋が終わる時を、待っているんです。


***


 「クリスマスものでいくと、あたしは“賢者の贈り物”が好きだなぁ…」
 マフラーを口元近くまで引き上げながら、玲は歌うようにそう言った。
 クリスマスイブの町中は、赤と緑のオーナメントに彩られていた。寒そうに肩を竦めた雪哉は、はぁ、と手に息を吐きかけながら、「どうして?」と玲に訊ねた。
 「だって、ただ優しいだけじゃなく、少し物悲しいテイストじゃない?」
 「物悲しいのが、いい訳? そう言えば玲の好きな話って、ベタなハッピーエンドじゃない話が多いね」
 「そうかも。なんかね、ベタなハッピーより、悲しみや寂しさを滲ませたハッピーの方が、しみじみ心にくるんだよね。“賢者の贈り物”も、そう―――髪はいつかは伸びるし、売り払ってしまった懐中時計は、また2人で頑張って働いて、買い戻せばいい。思いやるその気持ちこそが、賢者からの一番の贈り物だった、ってラスト、素敵だと思う」

 クリスマスだということで、『クリスマス・キャロル』や『賢者の贈り物』を話のネタにしながら、2人は、歩き慣れた道を並んで歩いた。
 話しながら、雪哉の目は、時折どこか遠くへ向けられる。しかも、頻繁に。そんな雪哉に気づきながらも、玲はまだ、何も言わなかった。なんとなく……訊かなくても、その理由は、想像がつくから。
 けれど、ふいに会話が途切れたのを機に、雪哉の心がどこかへ漂ってしまうのを感じて、さすがの玲も放っておくことができなくなった。

 「…雪哉んとこって、もしかしてホームパーティーとか開いちゃう家族?」
 なるべく、当たり障りのない話題から、振ってみる。
 案の定―――そこいらの空気の中を漂っていた雪哉の意識が、一瞬にして、雪哉の体に戻った。玲に見せる横顔が、僅かに気まずそうになる。
 「…いや。母さんいた頃はやってたけど―――弟も、父さんも、今年は“彼女とデート”、だな」
 「…なるほど」
 玲は、軽く眉を上げると、呟いた。
 「それで納得。今日の雪哉が、心ここにあらずな表情な理由」
 「……」
 雪哉の父の“彼女”―――千春だ。再婚話が出てから既に2ヶ月経つが、雪哉が答えを出せずにいるうちに、彼らの交際は順調さを維持しているらしい。
 「…別に、気にしてないよ」
 少し不機嫌な声でそう言うと、雪哉は顔を背けた。そんな雪哉の反応に、玲は「そ、」と短く相槌を打った。
 ―――出さなきゃ良かったな、こんな話。
 少々後悔しつつ、玲は、風に乱れた髪を掻き上げた。
 「まあさー、たかだか、クリスマスじゃない。うちなんて自営の小売店だから、かきいれ時のこの時期は両親揃って大忙しで、クリスマスでもなーんにも特別なことはやんなかったよ。あ、プレゼントは貰ってたけどね」
 「ふうん…」
 「もうプレゼント貰う歳じゃないし、姉貴なんて、彼氏とお泊り〜、とかバカなこと言ってるしなぁ…。ああ、年々クリスマスなんてつまらなくなる。サンタさん信じて靴下吊るしてた子供時代に戻りたいなぁ」
 「……」
 ―――なんか、返してきてよ。
 早く、今の気持ちを「千春さん」から引き剥がしてあげたくて、子供の頃の思い出話に逃げようと思ったのに―――黙りこくる雪哉に、ちょっと焦る。
 「―――…玲、」
 ふいに、雪哉が、呟くように玲の名を呼んだ。
 「え?」
 軽く首を傾げて、玲が問い返すと、雪哉は、酷く静かな声で、こう言った。
 「…付き合えないかな。俺たち」
 「……」

 心臓が、止まった。
 それと同時に、足も止まった。

 目を丸くして、雪哉を見上げると、雪哉自身もなんだか驚いたような顔をしていた。自分で自分の言ったことにうろたえたみたいに、僅かに瞳を揺らしている。
 付き合えないかな―――そんなセリフを、今、このシチュエーションで口にした彼。それは、彼にとっても、多分予定外のセリフで。
 予定外、だからこそ……その言葉は、玲の胸に、深く突き刺さった。
 「…え、ええと…」
 焦ったように、雪哉が言葉を繋ごうとする。けれど、玲はそれを待つだけのゆとりを、もう持ち合わせていなかった。

 あの日、振り解くことができなかった、すがりつく手。
 何度も、何度も、後悔した。あの時、突き放していれば―――辛くても突き放していれば、友情だけは失わずに済んだのに、と。

 「―――…酷いこと言うね」
 気づけば、苦しさが、唇から零れていた。
 「…あんまりだよ」
 「!」
 玲の目に涙が浮かんだのを見て、雪哉が息を呑む。
 混乱、している。玲が何故泣くかわからず、途方に暮れている。…当然だろう。けれど、もう止めることはできなかった。
 「…あの人に似た子からの告白には、あの人の身代わりにしちゃうこと恐れて、断ることができるのに―――あたしには、そういうこと言う訳? お父さんとあの人が一緒にイブ過ごすこと考えると、辛くて辛くて、1人じゃいられないから……その辛さを、あたしで誤魔化そうとする訳?」
 「……っ、」
 「しかも、あたしの雪哉への気持ち知ってて、わざとそういう真似するんだったら……最悪だよ」
 「! 玲っ、違…」
 慌てて反論しようとした雪哉を、玲は、キッ、と睨み上げた。
 「雪哉が、あの人そっくりな子見つけて付き合おうが、お父さんからあの人奪い取って駆け落ちしようが、自棄酒飲んでぶっ倒れようが、あたしは止めないし、雪哉の気が済むようにすりゃあいい、って言う。雪哉の気持ちは、雪哉自身にしかどうすることもできないもん、雪哉のやりたいようにやればいいよ。でもね! あの人を抱きしめられない代わりに、あたしで誤魔化そうとするのだけは、絶対許さない! そんなことしたら、二度と口きいてやんないから…!」

 言い放つと同時に、涙がこぼれ落ちた。
 くるりと踵を返した玲は、立ち尽くす雪哉を置いて、その場から走り去った。


 ―――…雪…哉…。
 雪哉が、好き。

 けれど―――今、雪哉の手を取ってしまったら、またあの時と同じになる。
 お父さんと千春さんのことを考えて、あんなに苦しそうな目をする雪哉―――雪哉の心の中には、まだ千春さんがいる。誤魔化し切れないほどの大きさで。なのに今、雪哉を受け入れてしまったら…また、あの時と同じ思いをする。
 ううん、あの時よりきっと、今度の方が辛い。
 もう、雪哉を好きになってしまっている分だけ―――もっと、苦しい。


 好きな人から、付き合って欲しい、と言われた筈のクリスマスイブを、玲は、ひとりぼっちで、泣きながら過ごした。
 雪哉も今頃、ひとりぼっちでいるんだろうか―――そう思ったら、胸が痛んだ。


***


 雪哉と連絡を取らないまま、年が明けた。
 キャンパスで再び、雪哉と顔を合わせたが、どちらも気まずくて話しかけられなかった。が、幸い、和佳子が傍にいてあれこれ話しかけてきてくれたので、物言いたげな雪哉の視線を、極自然にかわすことができた。
 元々、中途半端な態度を取っている雪哉をあまり良く思っていなかった和佳子は、雪哉と玲の間がギクシャクしていることに気づくと、むしろ嬉しそうな顔をした。
 「何があったか知らないけど、少し距離置いた方がいいのよ。ああいう優柔不断な男に深入りしすぎると、都合のいい女にされちゃうもの」
 「…そんな器用な男じゃないよ、雪哉は」
 雪哉は、不器用だ。
 不器用で、嘘をつくのが下手だ。
 玲に話しかけたくて、でも、できなくて―――そんな雪哉の心の動きが、視界の端に映るその姿から、全部見えてしまう。それに気づくたび、玲の胸は痛んだ。

 …自分の方から、仲直りしに行くべきなんだろうか?
 でも、今、雪哉と向き合ってしまったら……次、また突き放すだけの自信は、もうない。まだ雪哉の気持ちの整理がついていないのをわかっていても、きっと雪哉の手を拒めないだろう。

 苦しい。
 雪哉と話せないと、毎日が苦しい。
 早く、答えが出て欲しい―――それが、どんな答えでも構わないから。

 じりじりと息の詰まるような日々が、何日か過ぎた、ある日。
 思いがけないことが、玲の身に、起きた。

***

 「なあ、玲ちゃん。この後、文芸サークル出ないなら、練習試合、見に来てよ」
 唐突にそう誘ってきたのは、雪哉の友人だった。
 彼と玲は、あまり親しくない。よく講義が一緒になりはするが、話をしたのは数回だけだ。何故自分を誘うのか、その意図がいまいちわからなかったが―――サークルには、雪哉とのことがあって以来、なんだか行き難くなっていた。迷った末、玲は彼の誘いにOKと返事をした。
 「多分あいつ、玲に気があるわよ。私もいたのに、玲だけ誘うなんて、間違いないでしょ」
 和佳子が肘で玲をつつき、茶化すようにそう言う。まさか、と笑った玲だったが、もしかしたら…と頭の隅で思った途端、一気に気が重くなった。
 でも、OKしてしまったからには、行かない訳にもいかない。諦めた玲は、日頃滅多に行くことのない体育館へと、足を運んだ。
 そして―――行って、後悔した。

 迂闊だった。
 “何の”練習試合か、“どこの大学との”練習試合か、全然確認しなかった、玲のミスだ。
 バスケットコートの外、控え選手が待機しているエリアから、玲の顔を見つけて目を丸くしているのは―――もう二度と会うことはないだろう、と思っていた人だった。
 「……亮…人、」
 掠れ声で呟いた名前に、ハーフタイムが終了したことを告げるホイッスルの音が、重なった。

 

 「玲―――…!」
 試合終了後、体育館の外で雪哉の友人と話をしていた玲は、背後から飛んできた声に、一瞬身を竦ませた。
 チラリと振り返ると、案の定、本日の対戦相手の大学名が入ったジャンパーを羽織った彼が、息を切らしてこちらに走ってくるところだった。小さく息をついた玲は、突然のことにキョトンとしている雪哉の友人に、申し訳なさそうな顔を向けた。
 「…ごめん。高校の時の同級生なの」
 「あ…、そ、そうなんだ」
 「試合、面白かった。誘ってくれてありがと。次の試合も頑張って」
 ぽん、と彼の肩を叩き、いつもの玲らしい笑みを向ける。何か言いたそうな様子だった彼も、この玲の態度から、こりゃ自分には全然興味がなさそうだな、と感じ取ったのだろう。苦笑を浮かべ、玲の肩を叩き返した。
 「おー、頑張るよ。気が向いたら、また応援しに来てくれよな。次は、和佳子ちゃんも一緒に」
 「うん」
 彼が、手を振りながら玲の前から立ち去るのとほぼ同時に、駆けてきた亮人が、玲のすぐ傍で足を止めた。
 「…彼、良かったの?」
 肩で息をしながら、亮人が、スポーツバッグ片手に去って行く後姿と玲を何度か見比べる。そういう仕草が、以前と全然変わっていなくて、玲は思わず苦笑を漏らしてしまった。
 「…うん。いいの。久しぶりだね、亮人」
 玲が言うと、亮人は、ちょっと気まずそうな笑みを口元に浮かべた。
 「ハーフタイム中に玲見つけて、心臓止まった」
 「……」
 「その―――ありきたりだけど、元気?」
 「うん。亮人は?」
 「オレは、見てのとおり」
 亮人はそう言って、ふざけるように両腕を広げてみせた。彼は、今日の試合で第3ピリオドから試合に登場し、コート中を目いっぱい駆け回っていた。高校の頃より上手くなったな、と、亮人の巧みなボールコントロールを見て、玲はちょっとした感慨を覚えたものだ。

 亮人とは、別れたあの日から、ほとんど口を利いていなかった。
 元々、クラスも違う2人だ。それに、3年生だった。梅雨が明け、夏休みになれば、受験対策の補習授業や夏期講習などで、学校全体が忙しくなる。その忙しさのせいにして、2人は、お互いを避けていた。
 卒業する時、人気者の亮人は、たくさんの1年生や2年生に囲まれ、記念撮影に追われていた。それを、少し離れた場所で見ているだけだった玲は、彼が玲に気づくより前に、その場を離れた。これでいい―――そう、自分に言い聞かせながら。
 あれから、2年。
 …亮人と話すのも、2年ぶりだ。

 ―――…でも…何も、出てこないよ。亮人。
 思い出はたくさんあるけれど、感じたこと、思ったこともたくさんあるけれど―――いざ、何か話をしようと思っても、何も出てこない。玲は、亮人と向き合ったまま、話す言葉も見つからずに、ただ佇んでいた。
 亮人の方も同じなのか、ふざけて広げた腕を下ろしてからは、どこか気まずそうな表情のまま、何も言わずに玲の顔を眺めていた。
 黙ったまま、時が過ぎる。結局―――口を開いたのは、亮人の方だった。

 「…さっきの彼、玲の彼氏?」
 ちょっと訊きにくそうに、亮人が訊ねる。
 えっ、と目を丸くした玲は、慌てて首を振った。
 「もしかして、今もフリー?」
 「…うん。亮人は?」
 「オレも、今は、フリー。…この前まで、付き合ってた彼女、いたんだけど」
 「高遠先輩?」
 彼が、高遠と同じ大学に入学したことは、知っていた。玲と別れた後の残された高校生活の間、彼は誰とも付き合わずフリーのままだったが、大学入学後に高遠に再アタックする可能性は十分ある、と玲は思っていた。
 けれど、高遠の名が玲の口から出た途端、亮人は困ったような顔をして、ははは、と笑った。
 「まさか。オレが入学した時点で、先輩、また別の社会人と付き合ってたし。今は、また別の人じゃないかな。時々話するけど、やっぱりオレは“可愛い弟”止まりだよ」
 「…まだ、好きなの?」
 だから、付き合ってた彼女と、別れちゃったの?
 暗に滲ませた意味は、亮人にも伝わっただろう。亮人の表情が、一瞬、苦痛に歪む。が……自嘲気味な笑みを浮かべた亮人は、玲の言葉に首を振った。
 「いや―――高遠先輩のことは、玲と別れて暫くした頃、自分なりに区切りつけた」
 「……」
 「同じ大学になったのは、高遠先輩が理由じゃなく、あそこのバスケ部に入りたかったからなんだ」
 「…ご…、ごめん」
 顔が、ちょっと熱くなる。酷いことを言ってしまった―――申し訳なさそうに玲が眉を寄せると、亮人は、慌てたように目の前で手を振った。
 「あ、い、いや、謝るなよ」
 「でもあたし、亮人が彼女と別れた理由を、変な風に邪推しちゃったし」
 「いいって。それに……正直、耳痛いとこあるんだ、それ」
 「え?」
 少し目を丸くする玲に、亮人は、バツが悪そうに頭を掻いた。
 「…あのさ。玲、別れる時、言っただろ? 後悔してる、って」
 「……」
 「オレが、玲に甘えてきた時、可哀想でも突っぱねるべきだった、って―――流されたこと、後悔してる、って、オレに言っただろ?」
 「…うん、言ったよ?」
 「…オレは、玲と別れた直後から、もの凄く後悔してた」
 「……」
 「玲に、すがっちゃったことじゃなく―――玲の手を、放しちゃったことを」
 「……りょ…、」
 「なんで、あんないい女、手放しちゃったんだろう―――みっともなくてもいい、まだ迷ってる部分があってもいい、今、玲が手を繋いでいてくれるんなら、苦しくても辛くてもいいから、死に物狂いで掴んでおけばよかった―――…毎日、毎日、後悔してた。高遠先輩を忘れられない間も、忘れた後も、ずっと」

 ―――…亮人…。
 思いがけない言葉に、玲は、目を見開いたまま、言葉を失った。

 「…もう、好きだ、って気持ちは吹っ切れたけどさ。オレ、この前まで付き合って子のことも、つい、どこかで比べちゃうんだ。こんな時、玲ならこんな風に言ってくれただろうな、とか、玲ならこんな甘いこと言わず、びしーっとオレのこと怒鳴ってくれただろうな、とかさ。…未練、て訳じゃないけど―――手放しちゃったものが、大きすぎてさ。それに、あの後全然話もできなかったから、後悔がなかなか小さくならないんだ」
 そこまで一気に言うと、亮人は大きく息を吐き出し、真っ直ぐに玲を見据えた。
 「だから、今日―――ここ来るってわかって、ほんの少し、期待してた。もし、神様がチャンスくれたら……2年前言えなかったこと、ちゃんと玲に言おう、って」
 「い…えなかった、こと…?」
 「―――オレ、本当に、玲が好きだったよ」
 不覚にも、心臓が、跳ねた。
 「玲が好きだから、玲と付き合ってた。…すげー、幸せだった、あの半年間。オレは、玲より高遠先輩が好きだから、玲と別れたいと思ったんじゃない―――高遠先輩に未練残してる自分が、玲に甘えることしかできない自分が、情けなくて、悔しくて……お前に合わせる顔ない、って位、惨めだったから―――その惨めさから、逃げたくなったんだ」
 「…亮人…」
 「ごめん」
 きっぱりと、そう言って、亮人は潔く頭を下げた。
 「ごめん―――辛い思い、させて」
 ―――…亮人の、バカ。
 目頭が、熱くなる。にわかにこみ上げそうになった涙を、玲は泣き笑いのような笑みで、なんとか押さえ込んだ。
 「…いいよ」
 亮人が顔を上げる前に、僅かに目尻に浮かんだ涙を、指で拭う。顔を上げた亮人に、玲は、やっと心からの笑みを見せられた。
 「いいよ、もう。…亮人の口から、それ聞けて、もう十分納得できたから」
 玲の答えを聞いて、亮人は、ホッとしたような、肩の荷が下りたような笑みを見せた。良かった―――声には出さず、唇の動きだけでそう呟いた亮人は、突如、その顔をいたずらっ子のような表情に変えた。
 「玲、今、好きな奴いるだろ」
 「えっ」
 「元親友、なめんなよ。ムードでわかるんだよ」
 くすくす、と笑った亮人は、けれど、すぐに真摯な表情になった。
 「―――絶対、手、放すなよ」
 「……」
 「どんだけ惨めでも、どんだけ情けなくてもさ。…好きなら、一度握った手は、絶対放すなよ」
 「……うん」
 なんて、タイムリーな言葉。
 心からの感謝と共に、玲は、にっこりと微笑んだ。
 「今日、亮人に会えて、良かった―――ありがとう、亮人」

 神様がチャンスをくれたのは、亮人に対してだけじゃないのかもしれない。
 玲にも―――雪哉の手を取ることを躊躇う玲にも、神様は、亮人というチャンスを与えてくれたのかもしれない。


***


 亮人と再会した、翌日。

 「……っ、」
 1人、キャンパスを後にした玲は、正門のすぐ傍に佇む雪哉の姿を見つけ、思わず足を止めてしまった。
 まだ、心の準備ができていない―――動揺に、顔が僅かに強張ってしまう。瞳を揺らした玲は、その動揺を押さえ込もうとするように、少しずれていたマフラーをせわしなく直した。
 雪哉の方は、玲と会えたことに、少しホッとしているようだった。硬かった表情を和らげると、玲の隣へと歩み寄った。
 「…1人?」
 雪哉に問われ、ぎこちなく、頷く。もっと自然な態度を取りたかったが、まだ動揺の方が大きかった。
 「…そっちは?」
 「俺も、1人」
 「…そう」
 「―――この前は、ごめん」
 いきなり核心に触れられ、心臓がどきんと音を立てる。
 軽く唇を噛んだ玲は、視線を少し落とし、首を何度か振った。
 「あたしこそ……ごめん。一方的に、まくしたてて」
 「玲が、謝ることないよ」
 「……」
 ―――でも…雪哉は、何も知らないのに。
 玲の事情など何も知らない雪哉を、ひとりぼっちで放り出したのは、玲の方だ。この罪悪感を、どう伝えたらいいのだろう―――迷う玲の耳に、突如、雪哉の呟くような声が届いた。

 「―――…再婚、賛成することにした」
 「……」

 弾かれたように、顔を上げる。
 見上げた雪哉の顔は、酷く穏やかだった。クリスマスイブの日に見せた、あの息が詰まるような緊張感が、ほとんどない―――何かから解き放たれたような、静かな表情だった。
 「ど…、どうして…?」
 「…うん…、なんか、上手く説明できないけど」
 「…大丈夫なの?」
 ―――無理して、ものわかりのいい息子を演じてるだけじゃ、ないの?
 眉をひそめる玲の声にならない言葉は、雪哉にも届いたらしい。ふわりと微笑むと、雪哉は、小さく頷いた。
 「…まだ、完全に、ゼロになった訳じゃないけど―――恋愛感情を1としたら、家族としての好意が3、位かな」
 「…なかなか、ファジーな比率だね、それ」
 思わず、呟く。
 でも、このファジーな比率が、逆にリアルだ。そのリアルさが、いつもの雪哉の理知的な部分をよく表している気がして、玲はくすっ、と笑った。
 「それに―――余っちゃた恋愛感情の行き場も、俺には、ちゃんとあるし」
 笑みを返しながら、付け足すようにそう言った雪哉は、少し表情をひきしめ、じっと玲の目を見つめた。

 「改めて、言うよ」
 「……」
 「…付き合えないかな、俺たち。友達として、だけじゃなく―――今度は、彼氏、彼女として」

 名前のとおり、まるで降る雪のように静かな、雪哉からの二度目の告白。
 そこに、あの日、雪哉が見せた苦悩も、戸惑いも、一切見られない。真っ直ぐに玲に向けられる目にあるのは、たった1つの気持ち―――玲と同じ気持ちだ。

 “好きなら、一度握った手は、絶対放すなよ”

 放したくない―――もう、二度と。

 微笑み返した玲は、ずっと玲を待っていたせいですっかり冷えてしまった雪哉の手を取り、両手で包み込んだ。

 

 優しい夜風が、宵待草の首元を、撫でていった。
 仰ぎ見た空には、柔らかな光を放つ月が、ぽっかりと浮かんでいる。

 ―――待ってたの。
 ずっと、ずっと、待ってたの。

 宵待草は、月の光に誘われるように、その花を咲かせた。“好き”―――そんな、恋の歌とともに。


1600000番ゲットのkotaroさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「
大学生(性別問わず)の脇役君(さん)の恋」。……そして出来上がったのが、都合事情第3弾です(滝汗)
玲の設定は、実は「父の都合 息子の事情」の段階で出来上がっており、いつかふさわしいリクが出て来たら、また出してみようかな、と思ってたんですね。そしたら、ちょうど「脇役の恋」というリクが来ましたので、乗っからせていただきました。


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